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第三十三話・「友達」

 外界の音が次第に遠ざかっていく。

 ナチス親衛隊の執拗な捜査から、床の下で息を潜めて難を逃れるユダヤ人。物音一つ、息すら出来ない追跡の恐怖。親衛隊の足音が遠ざかっていく。大丈夫。殺されなくて済むという安心感。もう辛い思いを、痛い思いをしなくていい。

 そんなユダヤ人狩りとその復讐を描いたクエンティン・タランティーノ監督の映画、イングロリアス・バスターズのような、追われる恐怖、狂気と緊迫が徐々に遠ざかっていく。

 痛みから、現実感から意識が離れていく。

 黒。

 真っ暗闇。漆黒。

 黒を表す数多の表現では言い尽くせない黒。

 黒に飲込まれれば飲込まれるほど冷たく身体が凍えていく。身体の表面を凍らせ、染みこんできた冷気が身体の芯から凍らせていく。暗闇。極寒。絶対零度の極地……。

 その中に和臣はいた。

 闇に凍らされ、力という力がなくなる。首を曲げ、腕を持ち上げることすらも出来ない虚脱感が身体に取り憑いていた。黒い霧が立ちこめてそれが身体の中に吸い込まれ、機能をさせなくする。このまま暗闇と氷河の中で過ごすのだろうか、と和臣は思考の闇に囚われる。一秒にも、一時間にも、一日にも感じる闇の中で……。

 和臣があきらめの心境に至りそうになった。

 ……瞳に何かが映る。

 その中に、まるでこっちへおいでよと言わんばかりに、ぼうっと灯る光りがある。

 夏の夜の電灯に鱗粉をちらして寄り添おうとする蛾のように、和臣は本能的に引き寄せられていった。

 光りの膜をくぐると場所が一変。光彩が光を絞り切れずに、和臣は目をつぶる。

 目が光になれる頃には、淡い輪郭が確かなものとなっていた。

 明るい場所にいた。

 一人、立っていた。

 公園だ。

 照りつける太陽と、囲む新緑。

 まるでゲームの次ステージで、ローディングに遅れて読み込まれたエフェクトのように、嬉々とした子ども達の笑い声が後から加わり、そして溢れていく。

 和臣のそばを少年が駆けていき、和臣は慌てて身体を避けようとする。

 少年二人は、どうやら鬼ごっこをしているようだった。

 和臣の周囲を回るように、鬼から逃げている。やがて、らちがあかないと分かったのか、和臣の周囲で逃げ回るのを止めてブランコの方に騒がしく駆けていった。鬼の駆けていった先では、ブランコをこぐ子供達もいた。

 女の子と男の子。

 二人は靴飛ばしをしているようだった。二つ並んだブランコを高く、強くこいでいく。半ズボンと短いスカートが行ったり来たりする。そして、舞い上がった二つの靴は、砂場に築かれた手抜き工事の城を越え、けんけんぱのいびつな円の落書きを越えて、和臣の前に転がった。

 男の子の小さな靴が和臣のつま先にぶつかって止まる。

 女の子の靴は和臣にぶつからなかったせいか、男の子の靴よりも遠くに飛んでいた。

 ブランコから男の子の不平の声が聞こえてくる。女の子はニコニコしながら、男の子にくっついている。勝ったことに喜ぶというよりは、ただ男の子のそばにいることが嬉しいような、そんな笑顔の花だった。とても仲の良さそうな様子。

 男の子は和臣に二言三言文句を言うと、靴を拾い上げる。

 靴のかかとには、油性ペンで名前が書かれていた。

 ひらがなで、はやま。

 少し離れたところに転がった女の子の靴にも、同じように。

 ひらがなで、くにかた。


「……はやま……くにかた……?」


 重要なことに気が付いて顔を上げると、子供二人は手を繋いで公園を出て行くところだった。


「待って下さい! 誠一郎君! 藍子さん!」


 気が付けば和臣は必死に追いかけていた。

 今どこにいるか、いつなのか、夢なのか。

 冷静ならば簡単に問いかけられる質問すら投げ捨てて、和臣は二人の子供を追いかける。

 あぜ道の上、新緑の中、太陽の下。我を忘れて追いかけ、どこまでも緑の続く道を追いかけ、追いかけ、どこまでも必死に追いかけた。死にものぐるいで。追いつけないはずがないのに、ただ無心でひたすらに。まるで、仲間はずれにしないでよ、と泣き叫ぶ子供のように追いかけた。

 子供達の背中が消えたのは、草原の真ん中にあった段ボールで出来た秘密基地。

 躊躇なく、和臣は秘密基地に飛び込む。

 段ボールで出来た屋根を壊さぬようくぐり抜け……ようやく自分の知っている場所に辿り着く。

 学園近くの土手だった。

 遠くには橋が見え、その上を電車が走っていく。川面にはゆらゆらと夕焼けが浮いていて、夕焼けの上をゴムボールが流れていく。四つん這いになっていた身体を起こし、和臣は視線の先にいる、ある人物を見つける。

 黒髪でひょろっとしていて、少し目つきが悪くて付き合いにくそうな顔つき、今よりも少し幼い顔立ちに一抹の不満をため込んで、ただじっと夕焼けの写り込む水面を見つめていた。

 和臣はゆっくりとその人物に近付いていく。同じだった。光に手を伸ばそうと、触れようと、羽根をばたつかせる蛾と。途方に暮れた暗闇の中、温かい光に引き寄せられていった、あの時と。

 土手に微風の波が寄せる。髪が揺れ、真似するように草と草がそよぎ、出来上がったアンサンブルが涼しげな音色を奏でる。

 知っている。この風景を。

 分かる。この後のやりとりを。


「ようやく来たか」


 少年が起ち上がり、ズボンに付いた汚れをぱんぱんと払い落とす。その少年に向かって、和臣は用意していたわけでもなく、考えついたわけでもない、かつて経験したありのままの言葉を口に出した。


「遅くなってすみません、葉山君。それと……国方さん」


 少女に言葉を向けると、少女はこくりとうなずくだけだった。

 肩に掛かるきめ細やかな黒髪が印象的な美しい少女。大人びた雰囲気と少女らしさという、歳を経て手放さなければならないものを当たり前のように持っている傾国の美少女。


「あー、俺の言いたいことはな、田中」


 目をあさっての方向に逃がしながら唇を尖らせる。

 田中という、自身の持つごく一般的な名字。

 その言葉が少年の口から出るだけで胸がわずかに痛む。


「まわりくどくなるかも知れないけど、黙って聞いてくれよな。出会ってから、色……色々さ、些細……っていったら怒られるかも知れないけど、取りあえず、なんとなく……っていったらまた失礼になるのか? いや、ならないか? あー、もう、そういうことじゃないんだっ! そういうのが言いたいんじゃなくて……ああっ!」


 いらだちと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら頭をかきむしる少年。身もだえしている横でたたずむ少女。少女は少年の言葉を補足するわけでもなく、そっと半歩後ろに寄り添って言葉が整理されるのを待つ。驚天動地に慌ただしい少年とは対照的に、無表情。

 それに見かねた夕陽が、少女の頬にそっと陽光で薄化粧の赤を施す。ほんのりと頬を染める薄紅はまるで少年を温かく見守っているようで。

 少しだけ、ほんの少しだけ、少女が微笑んでいるように見えた。


「はーはー……ぜーぜー……もう、やめだ! 考えるのはやめだ。手順とか、効率とか、スマートさとか、格好良さだとか、そんなのもうどうだっていい……! とにかくだ、俺の言いたいことは一つだけだったんだよ。一つだけ。そう! 最初から一つだけだったんだ」


 大きく息を吸って吐き出す。深呼吸。真っ赤な顔を平常に戻そうとしたのだろうが、それは徒労に終わり、結局真っ赤な顔のままで少年は告げた。


「俺とお前は、友達だ」


 その言葉を理解した瞬間、胸に小さな火が灯る。


「せ、正確には違うぞ。違うって言っても、間違っているわけではなくて、友達なのはもちろん友達だ! ただ、その、解釈が違うって言うか、とにかくそうじゃないんだ! 分かったか!? よし分かったことにするぞ、俺は!?」


 自分でも何を言っているか分からなくなって、急に完結に持っていこうとする。脱線したまま駅のホームに突っ込んで停車しようとするように見えた。


「誠一郎。それじゃ、分からない」


 くいくいと親指と人差し指で袖をつまむ。


「う……わ、分かった」


 少女が脱線した列車を元に戻す。

 マスターコントローラーを巧みに操る車掌のよう。きちんとした駅へ辿り着かせる役割で、優しくブレーキをかけてあげる。

 土手に流れる清涼な風を肺の空気と入れ替えて、少年は自らの胸にそっと手を置いた。


「――俺はここにいる」


 太陽が沈んでいく夕方なのに、少年はますます輝いていく。


「お前が、田中がいて欲しいって思うときに、思った場所に、思ったらすでにいるんだよ。ここにさ」


 自分の胸に乗せていた手を拳にして、とんとんと心臓をノックする。

 気持ちを込めるように。

 揺り動かすように。

 目覚めさせるように。


「語弊があるかも知れないけど、俺はそういう気持ちでいる。田中と四六時中一緒ってわけじゃないけど、気持ちでそばにいる。忘れなければ必ずそこにあるんだ。思う気持ちが心の中に。暗記科目みたいにそうしなきゃいけないんじゃなくて、自然とそこに、ずっとそこに居座るんだ。だから、俺は一度友達だと思ったらずっとずっと田中のそばにいる。むしろ、もうとっくにそうなってる! それでもって場所とか、時間とか、年齢とか、まだるっこしいもの全部飛び越えて、一生そこにいる。お前の気持ちの中に俺は絶対にいる! お前が思い続ける限り俺は必ずいるんだ! 俺もずっとずっとそこにいる。そこにいたいって思う。むしろ、勝手にいるぐらいのつもりでいる。だから……あー……か、和臣!」


 夕陽の赤を越えて少年の……和臣の顔が燃え上がる。


「あ、はい、葉……いえ、誠一郎君」


 和臣は名前を呼ぶことに初めて緊張した。


「ここにいるよ、俺は。俺はいるんだ、お前のそばに」


 注入完了とばかりに、ひときわ強く胸をどんと叩いた。


「はい。……はい……!」


 返した肯定が震えていた。

 目の前が霞む。胸が熱い。とてつもなく熱い。一生残るだろう強く深いものが、心を温かく縛り付けた気がした。闇により凍らされた身中。熱で氷が溶けて、それが体中に溜まって、熱い奔流となって水を押し上げてくる。

 そしてそれはついに、堪えきれなくなって溢れ出した。


「嬉しいです、本当に……本当に……」


 泣いていた。嬉しかった。

 涙は勝手に涙腺から溢れた。

 どうしようもなく感動したとき、人はこんなにも涙することが出来るんだな、と和臣は人ごとのように思った。でも、流しているのは自分自身で、流れ落ちてくる涙で頬が熱い。顎を伝ってくる涙がくすぐったい。


「うおおおぉおおおおおおぉおおおおっ! 和臣いいいぃいいっ!」


 顔を真っ赤にしていた誠一郎が、突然耐えきれなくなったように叫び声を上げた。


「は、はは……」


 拭っても拭っても溢れてくる涙を、それでも拭いながら、和臣は笑った。


「友達だあああああっ! お前は俺の友達だあああああっ! 和臣は俺の友達だあああっ! 友達は和臣なんだあああああっ!」

「和臣」


 小さく玲瓏な声。


「は、はい……? 国……藍子さん?」

「うん」


 表情のない少女、藍子はこくりとうなずくと、何をやっているのと叱るように、誠一郎を迷いのない仕草で指差す。


「二人は友達。だから一緒に」


 とんと藍子に背中を押さる。  


「一緒に叫ぶの。友達だから」

「は、はい、分かりました」


 つんのめるようにして和臣は誠一郎の横に出た。


「和臣のおおおっ、和はっ! 平和の和あああああああっ! 和臣の臣はああぁぁっ! 大臣の臣いいいぃぃぃんんだああああっ! 俺達は、どうしようもなくっ! どうにかなっちまうぐらいっ! 友達なんだあああああっ!」


 隣では手をメガホン状にして、向こう岸、果ては夕陽に向かって叫ぶ友達の姿がある。

 格好悪くなんかない。恥ずかしくなんかない。ためらうことなんかない。

 なぜなら、友達だから。

 格好悪いわけがない。恥ずかしいわけがない。ためらうわけがない。

 なぜなら、一緒だから。

 友達と一緒だから。 


 ……でも、声が出ない。なぜか声が出せない。


 沈みかける夕陽に身体を向ける。

 友達が叫んでいるのに。嬉しそうにしているのに。

 一緒にしたい。同じことをしたい。共有したい。大きく、高く。叫びたい。

 とこまでも届いてしまえばいい。いや、届いて欲しいのはきっと一人だけ。隣にいる友達にだけ届けばいい。

 叫びたい衝動に声が答えてくれない。こんなに突き動かされているのに。

 声を出せ。腹の底から。どんな声でもいいから。どんなか細い声でもいい。

 口を開けて、ほら。言うんだ。呼ぶんだ。叫ぶんだ。

 自分自身に従って、声を出せ。

 たった一言だ。難しくない。なにも難しいことなんてない。

 たった一言。一秒にも満たないその名前を。

 友人の名を。

 叫べ、和臣――!



「誠一……郎……」


 絞り出した小さな声は、体育館の裏。

 激痛と絶望の中で目を覚ます。

 懐かしい夢。

 そう、過去の夢……。


「誠一郎君……」


 涙でにじんだ空には午後の青と、


「――俺はここにいる」


 あの時と同じ言葉。

 そこに、友達がいた。


長い、ですか。

地の文、ごめんなさい。

作者は、反省してます。

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