第二話・「解散!」
「それでは、これから我らが映研……映画研究同好会にとって重要な発表を行う。部員一同、心して聞いてくれ」
上座にある机、そのパイプ椅子に腰掛けた誠一郎。その向かいには、同じく机が二つにパイプ椅子二つ。それぞれ和臣と藍子が座っている。まるで過疎化した小学校の生徒と教師のように向かい合う。
「部員一同と言っても、部長である誠一郎、副部長である和臣、性奴隷であるわたしの計三人しかいない」
無表情で手をあげる藍子。まるで教師に質問する生徒の態である。
「おかしいですね、僕の記憶では、部長が誠一郎君で、副部長が藍子さん、そして僕が性奴隷であったはずですが」
「違う、わたしが性奴隷」
「いいえ、僕が性奴隷です」
「奴隷になりたきゃ、少し黙れ」
「……」
お互いに譲ろうとしない美女とイケメンに釘を刺す。まるでその釘で作られた昆虫標本のようにふたりは素直に口を閉ざした。誠一郎は満足そうにその二人を見やると、握り拳に咳払いをし、ゆっくりと話し出す。
「あー、よろしい、よく聞いてくれ」
パイプ椅子を引き、大仰に立ち上がる。
「今日をもって、映研は解散する!」
机を両手でバンと叩き、重大さをアピールする。
恋人に突然の別れを告げられたらきっとこんな顔をするのではないか、そんな悔しさと悲哀のにじんだ顔が和臣に現れる。
「せ、誠一郎君、それは本気なのですか?」
フラット極まりない表情でありながらも、藍子の顔にもわずかな陰りが見える。能面とは、全く同じ顔貌でありながらも光りの当たる加減、つまり影の濃淡によって無限に表情が変貌する。恒常的無表情少女の藍子は、まさにその能面のようにわずかな濃淡でしか表情を読み取れない。
誠一郎が読み取った藍子の表情、それは紛れもなく哀切だった。
「どうして……」
誠一郎は気持ちをぐっと堪え、頬を固くし、唇を引き結ぶ。
「和臣、藍子、すまない。これは決めたことなんだ。決意は意を決すると書く、だから俺の気持ちは揺るがない」
対したのは、和臣だった。
「誠一郎君お気持ちは分かりました。ですが、一つだけ言わせてください。僕にとって、この部活、いえ愛好会はかけがえのないものでした」
身振り手振りを交えた懇願。それは全速で空港に駆けつけ、去ろうとする彼女を呼び止める彼氏が如く、迫真そのものである。
「言ってしまえばここは、この学校という怠惰で無為な檻の中で与えられた唯一のエデンでした。映研と言いながら映画っぽいことは何一つしてこなかったこの名ばかりで虎の威を借る張り子の虎のようなこの活動が……どうしました誠一郎君」
「お前は俺になんか恨みでもあるのか」
「いえいえ、そんなつもりは毛頭!」
「かわいそうな誠一郎。よしよし、いたいのいたいのとんでいけ」
神速で誠一郎の隣に寄ってきた藍子が誠一郎を撫でる。
「そこは痛くない」
手は股間。
「きもちよかった?」
「気持ちよくない!」
「誠一郎君! 藍子さん! 僕は真面目ですよ!」
「お、おう……?」
「さっきと立場逆」
振りかざす握り拳で訴えかけられる。誠一郎が意気にたじろぎ、風圧が藍子の髪を吹き上げた。熱波が頬を叩くほどに振りかざされた和臣の拳は、伝説の勇者も真っ青だろう。
「僕は、僕にとってここは何よりの心のよりどころでした。誠一郎君と藍子さんだけが視界に入るこの空間こそが僕にとっての……そう共有結合のようなものです」
瞳を閉じ、走馬燈のように回り出す記憶の情景を噛みしめているのだろうか。和臣の前髪が、唇が震えている。
(……ん? 何だって? きょ、恐竜滅亡? 白亜紀か?)
(誠一郎、共有結合)
閉じられたまぶたを良いことに、こそこそと話し始める。
(ば、馬鹿野郎、知っていたさ。共有結合だろ、共有結合。あー、あれね、あれは重要だ、うん。無くてはならないよな。共有して結合するんだもんな、そりゃ大事だ)
明後日の方向に目が泳いでいる。
(誠一郎……かわいい。なでなで)
(なでるな)
(かわいい。しこしこ)
(しこ……おい!)
ズボンのチャックを半分まで下げられたところで、慌てて手を払いのける。
もう少しで先っぽに触れられてしまうところだった。危ない。危ない。
しなやかな雌豹の動きに戦慄を覚える誠一郎。
「お二人とも、聞いていらっしゃいますか?」
「聞いてるぞっ、なっ? 藍子?」
「うん。しこしこ。……ごめんなさい」
関節とは逆に手首を捻りあげられる。激痛だが無表情。
「いいですか、お二人とも。共有結合なのです。原子同士で互いに電子を放出し、その電子を互いに共有することによって生じる結合、それこそが共有結合なのです! 結合の強さは強く、共有結合によって形成される結晶は、共有結合結晶と呼ばれ、代表的なものにはダイヤモンドやシリコンなどの半導体があります。僕と誠一郎君と藍子さんはいわばそういう関係。互いに放出し合う愛情という電子を互いが共有し、それが三人の心身を深々と強く結びつけるのです! そうして結合された僕たちはダイヤモンドのように強固に結ばれているのです! 結合は英語で言うとBond、Bondにはまたこういう意味もあります」
声のトーンが下がる。優しくも印象深い鷹揚な声音で和臣は言葉を紡いだ。
「……絆です」
真摯で強い眼差し。冗談なのか、冗談ではないのか。普段の和臣からは想像の出来ない声の色に誠一郎は戸惑う。いつもなら冗談かそうでないかぐらいは簡単に判別できるのに、このときばかりはそれが判断できなかった。類い希なる美の笑顔で微笑んでいるのはいつものこと。しかし、中に宿る感情の琴線が見え隠れしているようで誠一郎は何となくもどかしくなる。
知っているようで、知らない。分かっているようで、分かっていない。理解しているようで、理解していない。
まだまだ自分の知らない和臣がいる。
誠一郎はそんな風に思えてならなかった。
「僕にとって、世界なんてどうだって良いのです。誠一郎君と藍子さんさえいてくれれば、お二人との絆さえあれば、他の何物も無用の長物です。そうと知っていてもあえて、この場所を、この映研を放棄するその訳を教えてください」
「和臣が燃えてる」
藍子の凛とした無感情の声が、誠一郎を思考の螺旋から連れ戻した。
「ああ、俺もこんなに必死な和臣を見るのは初めてかもしれん」
「さぁ、誠一郎君、茶番は終わりですよ、教えてください!」
観客に訴えかける舞台俳優のように、胸に左手を当て、右の手のひらを誠一郎へ伸ばす。
開けた窓からは、夏の微風が幕間を告げるように入り込んでくる。
軽音楽部のベースの音がお腹をずしんと叩き、バスドラムの低い音が演奏を引っ張っていく。やがて聞こえてきた透き通るような声。
彼女たちが歌うのは、奇しくも絆を歌う詩だった。
「分かった。和臣、お前にそこまで言われたら、その訳を教えなくてはいけないな」
「というか、初めから言うつもりだった?」
「黙れ藍子、流れを断つな」
「私は誠一郎に起って欲し――」
握り拳が藍子の頭に落ちる。
「……痛い」
小さな頭の上には特大のたんこぶ。もわもわと湯気がたつさまはとても痛そうである。
「テイクツーだ、和臣」
二本の指を立てる。
「ごほん、では……。さぁ、誠一郎君、茶番は終わりですよ、教えてください!」
観客に訴えかける舞台俳優のように、胸に左手を当て、右の手のひらを誠一郎へ伸ばす。
開けた窓からは、夏の微風が幕間を告げるように入り込んでくる。
軽音楽部のベースの音がお腹をずしんと叩き、バスドラムの低い音が演奏を引っ張っていく。やがて聞こえてきた透き通るような声。
彼女たちが歌うのは、奇しくも絆を歌う詩だった。
「……」
藍子はたんこぶをさすっている。
誠一郎が一度顔を下に向け数秒。そして再び顔を上げたとき。
彼はニヤリと笑っていた。
「確かに、映研は今日で終わりだ。だが、なにも俺はこの場所を、お前等との時間を終わりにするとは言っていない」
起死回生。
「……! では!」
和臣の顔に希望が宿る。
「ああ、そうさ、今日からこの愛好会は新たな姿に生まれ変わるんだ。世界に類を見ない新しい集団へと新生するんだ!」
「……新生と申請かけてる? それとも新生と真性?」
藍子は無視された。
軽音楽部の曲が最後のサビに入る。
ボーカルとコーラスが絶妙に絡み合い、絆を歌い上げる。ギターがうなりを上げ、ベースが全体をリードする。キーボードが彩りを加え、ドラムが全てをまとめ上げる。歌声は演奏の後押しを得て、感情全てを吐き出していく。
「遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 今日からここは――」
「ここは!?」
歌うよ、大好きをありがとう。彼女たちは奏でていく。
「ここは――勃起部だ!」
音楽が、突然止まる。
……どうやら歌詞をかんだらしかった。