第二十五話・「これから測定始めます!」
ビーチフラッグのスタートの姿勢のまま、誠一郎は顔を上げることもできず、和臣に問うた。
「し……知ってたのか? 和臣……? 俺のクラスと合同なのが、彼女のクラスだってこと」
誠一郎は見たいのに見ることが出来ない。二律背反が誠一郎を熱くする。
「……真のメインディッシュのことですか? ええ、知っていました」
床に腹ばいになったまま暴走する心臓を臨界まで放って置くとこしかできない。
「今世紀最高、人類史上最高かも知れませんね。僕も……本当は喉から手が出るどころか、内臓物全てが吐き出されて皮が裏返ってしまうほど見たいくらいですよ。ああ、藍子さん。僕は常々考えるのです。願わくはあなたがこの世に二人いてくれれば、僕の淡い苦しみも解消されるのではないかと……! でも、藍子さんは唯一無二であって欲しい。手の届かないところにいるからこそ、藍子さんは万物の中で頂点に君臨し続けていられるのだと。セーレン・オービエ・キェルケゴールは申しました、不安はそれ自体としては美しいものではない。 不安を感じるのと同時に、不安を克服するエネルギーが見られるときに限り、不安は美しいのだ、と。誠一郎君の求めるであろう美しさに沿うために誠一郎君に対して常に美しくあろうとする。自らの追求してきた、積み上げてきた美しさ、そして、そうして得てきた数々の美……常人には届かない美をこうも持っているのに……その美しさを受け入れてもらえない不安、絶望……。そうです、それはまさに死に至る病と同じ……! それでも、それを克服し誠一郎君のおかずになろうとする藍子さんの心が身体が、その全てが、不安や落胆や絶望ですら、美しいのです……。ですから、藍子さんが二人いたらなどというみもふたもない僕の空想など……奈落に落ちてしまえばいいのです。藍子さんは唯一無二、どこまでも誠一郎君のために存在しているからこそ、その姿に僕はこうも心を揺さぶられて……ふふ……僕はおかしくなってしまいそうです」
和臣が陶酔するように言葉を続けるが、誠一郎には届いていない。
和臣は和臣、誠一郎は誠一郎で熱にうなされている。
「見ろ。見ろ。見ろ。見るんだ、俺……!」
バレていないので遠慮の必要はない。もともと目的が勃起なのだ。手段はそこら中に転がっている。あとは、人生で一番稀有な幸運を目に焼き付け、脳の海馬だかシナプスだか普段サボってばかりの機能をフルに使って記憶として繋ぎ止めるだけ。
顔を上げて、瞳の焦点を合わせるんだ。
そして、見る。見る……見、見、見る、見る、見れ、見よ! 視姦するぐらい見るんだ! そうしなければ俺は起てない。
マ行上一段活用を祈るようにつぶやく。
「フッ……少々悪酔いをしてしまったようですね。僕としたことが、いけませんね。藍子さんのことを考えすぎると、どうも平常を保つのが難しくなります。さて、誠一郎君先程のお話ですが……」
勃起。勃起するんだ。起て、起つんだ! 俺!
そのためにリスクを冒した。勃起できる。
彼女の姿を、薄手のジャージ一枚で下着ですら透けてしまうような、あられもない彼女の姿を見るんだ。目に焼き付けるんだ。今後十年、一人の夜を現役で戦える彼女の姿を。
下着の色は何色だ? 胸の大きさは? 首筋は?
髪の毛は? 唇は? 鎖骨は? うなじは?
くびれは? 二の腕は? 足首は? 指先は?
ああもう、何でもいい。彼女のどんな些細な情報ですらも欲しくて欲しくて仕方がなくなる。
……ああ、参った。本当に参った。
どうしようもない、とてつもない変態だぞ、俺。
……今更のことか。
「せ、い、い、ち、ろ、う、く、ん……?」
「ふなあっ!? あ、ああ……! ああ、何だった? 何の話だった? ああ~……配置だな、保健室の! 頭に入ってるぞ、ばっちりだ!」
ベッドに後頭部をぶつけそうになりながら瞳の動きだけで周囲をの状況を確認する。
「机の配置ベッドの配置、花瓶の位置、キャビネットの中身まで完璧に暗記をして――」
その瞳がある一点で止まる。
「……和臣」
「なんです?」
その一点を見つめれば見つめるほど、有頂天になっていた興奮と共に、誠一郎の声のトーンが落ちていく。
「キャビネットの中の配置が……違う」
「高木先生が触れたのでは?」
誠一郎のトーンにあわせるように、訝しげに和臣が問い返す。
「いや、見ていた限り高木先生は触れていない。医学書とか医療書とか……専門書の類しかない棚だったはずだよな? 身体測定の時に、本を開いてまでわざわざ確認する項目は――」
「ないですね」
言葉尻を繋ぐ和臣。
ふむ……と、思慮深い声を出して一度マイクの位置を正す。ごそごそという音。誠一郎もいざというときのために耳元のヘッドセットを付け直す。
興奮しっぱなしだったのもあって、顔中汗だくだ。横隔膜を上下させて肺の空気を吐き出す。熱い空気から新鮮な空気へ。酸素を供給して次なる思考に備える。汗ばんだ耳の穴を指で拭き取り、ヘッドセットを耳の奥へ押し込んだ。
「事態は把握しました。誠一郎君の位置からだと……ここの棚ですね」
地図と誠一郎の位置関係を見直しているらしい。配置図の上を指でとんとんと叩く音がする。
「確かに、誠一郎君の仰るとおり、参考書の類しかないはずですが……具体的にはどのように違うんです?」
目を細め。
「一冊違う本がある。黒い背表紙のが混じっている……?」
目をこすり。
「う……嘘だろ……? おい……おいおいおいっ!?」
そして、目を疑う。
「誠一郎君? どうしました!?」
「間違いない。間違いない……そうだ、あれは――レンズだ。……カメラがあるんだ。ちょうど黒い背表紙の文字と文字の間に丸い穴が開いていて……巧妙に判別しにくく細工してあって、その中にレンズのようなものがある……!」
「信じてください、誓って僕ではありま――」
「最初から疑ってなんかない! お前を疑うくらいなら俺は自分を疑ってる!」
頭ごなしに質問を両断する。
「すみません。馬鹿な質問を……」
「どうする!? これじゃ……!」
……藍子。
……六條さん。
「じゃあ、これから測定始めます! 急がず騒がず出席番号順に並んでください。身長、体重の次に胸囲……と順番に測定します。注意点は……測定結果に一喜一憂しないこと! いいですね!」
『はーい!』
高木先生の明るい声と、女子生徒達の悲喜こもごもな応答。
不測の事態が起っているのは知るよしもない。
水面下で怒っている凶悪な事件。知るのは同じ犯罪を犯している誠一郎と、共犯者の和臣だけ。
……始まる。身体測定が。始まってしまう。
緊張が走る。二人の緊迫した空気が、2.4GHzの電波周波数に乗って行き来する。