第二十二話・「イッツ・ア・ミラクル」
「俺も、どうしたのです? 誠一郎君?」
一度は乗り越えた危機は、最後の最後で自らのミスという形で次なる危機を連れてきた。誠一郎の位置は、保健室の器機配置から見ると、扉とは正反対にある。将棋の駒でいうのならば、自側の右の香車と、向かって敵側の左の香車の位置。対角線上だ。
幸い、高木先生は気が付いていない。
取りに行けるだろうか……?
誠一郎は自らの失敗を自らの手でなかったことにするべく、試行錯誤する。身体測定の準備に忙しい高木先生は、保険室内をちょこちょこという擬音がふさわしいくらいに右に左に動き回っている。
たまたま誠一郎に背を向けることがあったとして、その間にハンカチを回収してベッドの下に戻れるだろうか……。
無理だ。そんなリスクは背負えない。あまりにも軽率すぎる。
「和臣……」
親友の名前を呼び、ぐっと歯ぎしりする。
「ハンカチを扉付近に落とした。取りに行けそうにない……」
「……仕方がありません。目的のための小さなリスクと思いましょう。たとえそのハンカチを高木先生に拾われたとして、持主を突き止めるにはヒントがあまりにも少なすぎます。事後策として、本作戦の完全終了後、藍子さんに口裏を合わせるようにしましょう。あのハンカチは藍子さんのものではないと。そして、二人で一緒に藍子さんにごめんなさいをしましょう。藍子さんなら当然のように許してくれますよ」
「……悪い。俺のミスなのに」
腹ばいで隠れたまま、床に額をこすりつける
「運命共同体ですよ。誰一人欠けることは許されません。仲間はずれは許されません。もしされたら……僕は泣きますからね」
「か、和臣が泣くのか……!?」
「心外です。確かに僕はイケメンで完璧ですが、人の子です。母のお腹から生まれてきた赤い血の流れる人間です。れっきとした日本男児ですよ。嬉しいときには笑いますし、悲しいときには泣くのです」
「そうだな。そうだよな……泣くよな、笑うよな、うん」
「だから誠一郎君、この作戦が終わったら、見事に男性自身を天に向かってそそり立たせることが出来たなら、一緒に笑いましょう。藍子さんも一緒に三人で」
「響きがフラグっぽいが……そうだな、笑うぞ。最高の勃起をしてみせる……!」
股間を勃起させたまま大笑いする構図は、周囲から変人扱いされるかも知れない。
しかし、得てして達成感とはそういうものではないかと思えた。
万人が共有できる達成感なんていうのはまれなんじゃないか。プロ野球のペナントレースで贔屓にしたチームが優勝したわけでもなければ、ワールドカップで日本が優勝したわけでもない。
ただ、起たなくなったものを起たせたいだけ。萎えているものを滾らせたいだけだ。
その人自身しか得られない達成感が世の中にはごろごろしている。
小学校の帰り道、学校で見つけた石ころを家まで蹴って帰れたら百万円……なんて挑戦をした思い出がよぎる。
達成しても百万円はもらえない。けれど百万円なのだ。途中で石ころが側溝に落ちても、自分ルールで石ころは何度でも復活する。思えば、あの時の百万円は、適当に作った報酬なのではなく、石ころを家まで蹴って帰れたという達成感が、百万円に相当するという無意識の条件付けなのかも知れない。
そういうニッチな達成感。
でも、一つだけ言えるのは、俺の勃起で達成感を味わってくれる仲間が二人もいてくれると言うこと。
ただの勃起じゃない。
俺の勃起はみんなの勃起なのだ。
アルプスに暮らす少女だって応援してくれている。まるで生まれた瞬間の山羊のようによろよろになりながらも、俺の下半身はこの苦難を克服する。雄々しく猛々しく空を仰ぐように起ち上がる。
もうガッチガチだ。バッキバキとも言い換えられるだろう。
それを見た少女は感動のあまりこう叫ぶのだ。
――起った! クラ……誠一郎が、起った!
感動のフィナーレだ。
そして俺は、みんなの力で勃起した俺というシンボルを使い……皆という最高のおかずを得て……最高の、最高の達成感を得るだろう。
俺は慣れ親しんだ右手をじっと見つめ、さらに開いたり閉じたりしながら、そのときの達成感を想像して打ち震える。
「さぁ、時間です。藍子さん達が来たようですよ、廊下が騒がしくなってきました」
「ああ……」
上履きの音がさざ波のように保健室に寄せてくる。
ワクワクとドキドキとソワソワがない交ぜになった女子達の声が扉越しに騒がしい。同時に診察するのは二クラス。藍子を含めた自分たちのクラスと、もう一クラス。男子生徒にどのクラスが測定するかなどを教えておいても意味はないから、誠一郎にはもう一つのクラスがどこになったかなど分からない。もしかしたら、和臣は知っているのかも知れないが、遅かれ早かれ知ることになるのだから誠一郎は聞かなかった。
「最終確認しましょう、保健室の間取りや測定位置は頭に入っていますね?」
「もちろんだ。相加相乗平均が忘れてしまうくらいに完璧に暗記した」
「(a+b)(a-b) = a²-b²ですね。これが終わったらまた暗記した方が良いですよ。最初は使いどころがなかなか判別しにくいですが、慣れれば簡単ですし、使えれば便利ですから」
「……しかし、今は関係ない」
「逃げましたね」
「しかし、今は関係ない」
「……」
「……」
沈黙。
「さて、みんなー、入ってきなさーい! 始めるわよー!」
高木先生の声で静かに禁断の扉が開かれる。
体操服姿の女子達がぞろぞろざわざわと、数人ずつ入ってくる。
空気的にはブルマであれば良かったのかも知れないが、女子達は学校共通の紺色のハーフパンツ姿である。上着は白のジャージという出で立ち。
しかしながらここで注目なのが、ジャージの上は薄手でかつ白のため、柄物、色物の下着が透けて見えてしまうという所。
(……すごいなこれは。……ゴクリ……)
つまり! 今保健室にいる女子のほとんどのブラがうっすらと透けているという事実だ。
また、白の下着の場合、透けはしないものの、白の下着なら白の下着で、透けないから白……などとブラの判断ができる。それはそれで想像力が刺激されるいいものだ。
このジャージの仕様は男子にとっては両手を挙げての嬉しい誤算と言えた。もちろん、女子達からすればそれは批判の的で、大抵は夏場暑いのを我慢して、女子は全員紺色の長袖ジャージを着てしまう。この学校だけの特殊な校風の誕生である。
それ故に、半袖白ジャージを見られるのは身体測定時のみ。当然、男子がお目にかかることは無い。
つまり、誠一郎にとってこれは、かなりのレアな体験。はぐれメタルに遭遇するだけでなく、仲間にするような奇跡体験。
「……アンビリーバブル。イッツ・ア・ミラクル。エレクトリカル・パレード!(意味不明)」
なぜ身体測定時のみ半袖ジャージの着用を義務づけられているのかは分からないが、誠一郎は心の中でその規則を作った想像上の人物とがっちりと握手を交わしていた。