第二十一話・「抱き締めたいです」
ただの足音なのに、爆音ではないメトロノームのような規則正しい音なのに、その連続は寸分違わず耳孔に入り込む。
音速は弾丸のように鼓膜を叩き、誠一郎は知らずに顔をしかめる。心臓の加速度が、足音のボリュームに引っ張られ、否応なしに跳ね上がっていく。
まるでライブ会場。熱気さめやらぬ観客がアーティストに求めるアンコール。再登場をせかす手拍子のように、心拍数が早くなっていく。
「誠一郎君!」
南京錠を手に持って何とかならないかと力ずくで試してみる。
もちろん、大きな音を立ててはいけないから、慎重に力を入れる。それでも焦りが生み出す発汗作用で南京錠は誠一郎の手から何度もこぼれ落ちる。
のれんに腕を押そうとも、ぬかに釘を打とうとも、焼け石に水を掛けようとも、一歩たりとも前に進めない。錠が解ける気配はない。
しかし、着実に終わりは迫る。
流れる背景音楽は、巨匠ジョン・ウィリアムズが作曲した映画『ジョーズ』のメインテーマ。異形の怪物が徐々に迫る恐怖が、音楽の大きさで体現される。
見えない恐怖が、終わりが連れてくる絶望が背中を焼いていく。
背後を振り返れば、巨大な魔物が口腔を開けていて。鋭利な歯と歯の間にはぬるりとした唾液が糸を引く。
「……開けよ開けよ開いてくれ……っ!」
「聞いていますか、誠一郎君!」
「焦るな俺、焦るな焦るな……俺っ!」
左耳が足音を過敏に捕らえすぎて、右耳のヘッドセットから聞こえる和臣の声に意識を傾けることが出来ない。
焦るな焦るなと自分に言い聞かせてみても、それは意味を理解してつぶやいているわけではない。
南無阿弥陀仏……と現代の若者が意味も分からずに仏に向かって拝んでいるのと変わらない。
ただ、言っているだけ。
焦っている。分かっている。震えている。分かっている。
開けるしかない。分かっている。丁寧に。分かっている。
冷静に。分かっている! 時間がない。分かっている!
ここで終われない。そんなこと、そんなこと!
「誠一郎君!」
「――分かってる!」
歯を食いしばって声を絞り込んだ。
南京錠が滑り、誠一郎の手からこぼれる。
ドアにぶら下がる南京錠が揺れていた。まるで誠一郎をあざ笑うかのように。諦めろとさとすように。思わず力が抜けそうになる。
張り詰めた最後の糸が切れそうになる。背後を振り向いてしまいたくなる。
恐怖に飲込まれそうになる。
「……もう、駄――」
「できます」
汗が頬を伝う感触。汗をかいていたことを思い出させる静かな声だった。
「出来ます、誠一郎君と僕なら」
「でも、和臣……!」
「出来ます、誠一郎君と僕なら」
繰り返された声は、落胆やあきらめなど微塵もなかった。
ここにはいない和臣の声が染みこんでいく。音は瞬く間に心臓、その動力部とも言える左心室に辿り着き、全身へと動脈を通じて送り出される。血液の一部であるかのように誠一郎と一体になっていく。
「僕は、誠一郎君とだったら何でも出来るんです。あなたとなら不可能はありません。馬鹿みたいにそう思えるんです。だから……!」
和臣の懇願と熱意と友情。三位一体が熱波の打ち付ける砂漠を、涼しげな大平原へ変えてみせた。
和臣の言葉には力が宿る。それが伝わる。流れ込む。言葉が停滞し淀んだ空気を動かす。吹く。言葉の生み出す風が。頼もしい。風が吹く。力強い。向かい風ではない、強烈な追い風。諦めない。
――風は、背後に迫る暗闇を吹き飛ばす。
「……どうすればいい?」
「それでこそ、誠一郎君です」
和臣が微笑んだ気がした。
「いいですか、単純な話です。南京錠を外すのではありません。南京錠の掛け金を外して下さい。事前の調査では立て付けが悪いことが分かっています。本日取れたて情報ですので、修理している暇はないでしょう。ですから、取れます」
「……壁に付いている方のやつだな?」
鍵を開けるのではない。鍵を構成する金具を金具ごと外してしまう。
先程までは焦りがその思考を奪っていた。誠一郎は頬をしたたる汗を下でぺろりとなめ取る。塩辛い味がした。
足跡は間もなく廊下を曲がる。残り十秒あるかどうか。冷静に。慎重に。確かに南京錠はびくともしなかったが掛け金自体はネジが浮いていてぐらぐらしている。爪を隙間に差し込む。
「――取れた!」
「急いで中へ!」
扉を引き、身体を忍者の如く滑り込ませる。
「よし、このまま閉め――」
「まだです! ポケットにハンカチがありますね、それで南京錠を拭いてからです!」
速攻で藍子からもらったハンカチを取り出す。音を立てるな。音を立てるな。
汗のべったりと付いた南京錠を包む、拭く。音を立てるな。音を立てるな。
拭き終り、慌ててポケットにハンカチをねじ込もうとした刹那。
黒いナースサンダルが視界に現れる。
廊下を曲がった。ラスト、保健室への直線十メートル。
高木先生の視界が直線を映す。
見られたら、終わりだ。
「今です!」
和臣の発声と同時、白衣がひるがえった。
「閉めて!」
静かに扉が閉まり、俺は侵入に成功する。続けざまに、這うようにして保健室のベッドの下へと急ぐ。確かに扉は閉まった。だがそれは時間稼ぎに過ぎない。保健室までの直線十メートルなど五秒とかからないだろう。開けてびっくり玉手箱。そこに侵入者がいたら意味がない。
侵入者は侵入者らしく隠れなければいけない。
「グッジョブです」
「ああ、次だ」
誠一郎は保健室にある二つのベッドのうち、奥のベッドに滑り込む。
「この鍵……やっぱり壊れちゃったわ。さっき慌てて閉めたときに外れちゃったのかしらね……早く直してもらわないと」
困ったわとつぶやいて、高木先生が保健室に入ってきた。
私服の上から白衣を纏ったいつもの姿。団子状に髪の毛が頭の上に纏められているのがトレードマーク。小顔でほんわかした顔に不釣り合いな大きな胸が、私服を押し上げ、さらに上に羽織っている白衣すらも押し上げている。
それはそれとして、高木先生が忙しそうにちょこちょこと動き回り、身体測定の準備を始めた。
「……とりあえずはファーストミッション、コンプリートってところか」
どうやら、高木先生がこちらに気が付く気配はないようだ。
「ええ、一時はどうなることかと」
「全部、和臣のおかげだ」
「いえいえ、僕たち二人のおかげですよ」
「意味が分からないが……でも、何となく分かるニュアンスだ」
「僕は今、この達成ごと無性に誠一郎君を抱き締めたいです」
和臣の安堵の息がマイクにかかり雑音を発声させる。
確かに山は越えたが、安心するには未だ早い。
……だが、和臣の言うこともよく分かった。
「ああ、俺も――」
誠一郎は息を殺して高木先生の動向をうかがおうとして――目を見開いた。
心臓が止まるかと思った。正確には心臓が爆発するかと思った。
……藍子のハンカチが、扉の近くに落ちていた。