第一話・「わたしは我慢できない」
パイプ椅子の転がる音が、無人の部室に響き渡る。
閉め切られた部室の窓、閉め切られたカーテンが外の光を受け止めている。カーテンのわずかな隙間から差し込む強い光。部室の薄暗闇を切り裂き、その光線上を黄金色に輝くほこりが音もなく漂っていた。エアコンの効かない蒸し暑い空気の中で、つぶやくような声が漂うほこりをゆるりと動かす。
「わたしが誠一郎を苦しみから解き放つ」
部室の椅子に腰掛け、ほっと一息を入れた直後だった。
その有無を問う暇も与えずに誠一郎は押し倒されていた。馬乗りになるのは藍子である。下腹部にはえもいわれぬ柔らかな感触がある。シャツごしであるせいか、徐々に染みこんでくる藍子の温もりは、部室の蒸し暑さとはまた違う温度である。気温の熱さと、人肌の熱さは別物であると誠一郎は知った。
「私には、誠一郎が思う全てを受け止める準備がある」
氷のような冷静な声と言葉の意味は、炎のように燃えていた。押し倒された衝撃で、床に打ち付けた後頭部の痛みが、思考を停滞させる。
「待て藍子」
それだけ言って下腹部に目を落とすと、短いスカートから黒いニーソックスが伸びていた。無駄のないしなやかなライン。太ももからふくらはぎまでの曲線美は、異性からすれば喉から手が出るくらい触れたくなるはずだ。
「だから誠一郎は、思う存分、私を汚すの」
「おい、聞いてるのか、藍子」
誠一郎の声は届いているはずなのに、肝心な所までは届かない。藍子が押しつけてくる下半身はスカートに隠されているが、わずかにめくれた部分では白い色がチラチラと見え隠れしていた。それが下着の色であるということは考えるまでもなかった。
「我慢できない。わたしは我慢できない」
藍子の両手が、誠一郎の顔を優しく挟む。手からこぼれ落ちる芥子粒のようなきらめきを伴い、藍子の黒髪が誠一郎へ流れ落ちる。髪は、まるで天蓋付きのベッドのように外界を遮断し、二人の世界を作り出す。
「……いいから、聞け」
「聞かない」
鼻と鼻がぶつかるくすぐったい距離。
藍子からは柑橘系の匂いが香る。しかし、その奥から香ってくるのは甘く、胸を締め付ける汗の匂い。少女ではない女性だけが元来から持つ香水。
「……。……誠一郎」
表情を変えない藍子が、自らの下腹部と隙間なく接触している誠一郎の下腹部に目を落とす。
「……なんだ」
難しい顔をしたままため息を吐く誠一郎。
「どうして起たないの」
ぐりぐりと無表情でお尻を動かしながらつぶやく。
「……だから困ってるんだろうが」
「わたしの性奴隷としてのアイデンティティは」
「お前を性奴隷として採用した覚えはないし、今後も採用するつもりはない!」
暑苦しいとばかりに藍子の顔を押しやる。
「これがいわゆる就職氷河期」
氷河のような冷静な顔だが、ニヤリ顔の成分が含まれていることを理解する誠一郎。
「……。まぁ、もしもお前がそういう就職活動をすれば、間違いなくお前に対する有効求人倍率が跳ね上がるだろうな」
「なら、誠一郎の有効求人倍率も今すぐ跳ね上がらせる、わたしが、この手で」
「下ネタはやめい」
ズボンのチャックに伸びた手を払いのけた時だった。
ガチャリと部室のドアが開く。
「誠一郎君、部室への緊急の召集とは一体――っと、これはこれは……色々とすみませんでした」
「違うぞ、これは違うんだ」
藍子を乱暴に床に転がしながら慌てて立ち上がる。
「勘違いするなよ、断じて俺の意思は介在していないからな!」
焦る誠一郎をよそに、藍子はどこ吹く風で闖入者を迎え入れていた。
「……痛い」
言いながら、お尻をすりすりとさする藍子。表情は至って平板である。
「勘違いなんて、するわけないじゃないですか。見たままのことを見たまま理解するだけですよ」
「世間一般では、それが勘違いの元になることが多いらしいぞ」
汗をだらだらと流しながら、誠一郎は特大の頭痛を感じていた。藍子に押し倒されたときに打ち付けた外側の痛みと、思考が誘発する内側の痛み。いわゆる前門の虎後門の狼状態。
「和臣、今はわたしの就職活動中、邪魔しないで」
「藍子さん、この度はいずこへと就職なされるのですか?」
「性奴隷。誠一郎専用の」
「断じてそんな職業はないからな」
誠一郎に後ろから抱きつこうとして避けられる。藍子の手が空しく空気をつかんだ。
「ちなみに初任給はどの程度なのでしょう。気になりますね」
転がっていたパイプ椅子を片付ける和臣。片付けながら指を一本立てて、にこやかに微笑んでいる。
「初任給は、誠一郎からの愛」
「払うつもりはないぞ」
「なら払わなくていい。わたしの愛は無償だから。ボランティアと同じ、報酬は求めてない」
「でも、年功序列型賃金体系をとっているから、年々誠一郎から受け取る愛は増えていく。さらに、それに伴い出世もする。性奴隷から、恋人、愛人から夫婦へと」
「色々と複雑な出世コースですねぇ。定年退職後の年金もある程度保証できると良いのですが……。ふむ……思ったのですが、その職業から言うと定年退職って、いわゆる熟年離婚のことじゃないでしょうか」
突飛なやりとりが誠一郎の頭の上をキャッチボールする。
「退職することはない。揺りかごから墓場まで続く永久不変の職業だから」
「それはいいですね。最近は会社が年金まで保証してくれませんし。資産運用を強いられるよりは、死ぬまで現役が堅実というものです。僕の就職先もそれにしましょうか」
窓を開けて部室の空気を入れ換えながら、不穏な提案が始まる。外界から吹き込んでくる風すらも、誠一郎にとっては不穏な話題を煽っているように思えてしまうのだった。
「なら、和臣も一緒に性奴隷?」
「はい、一緒に性奴隷を頑張りましょう。精一杯尽力しますよ」
「おい、お前ら」
振り返ると、表情のない藍子と、微笑む和臣ががっちりと握手を交わしているところだった。
誠一郎の頬を特大の汗が流れ落ちる。
「そうです藍子さん、研修制度や、配属先などはどのような?」
「研修はない。配属先は、各々の適正を判断してもう決めてある」
「ちなみにどこへ配属を?」
もったいぶったように一拍おくと、藍子は誠一郎をちらりと見て、口を開いた。
「わたしは前、和臣は後ろに配属」
「! 早速ですが、サービス残業を!」
「待て待てぇい!」
がっちりと交わされていた握手を手刀で切り裂く。
「待てない。わたしたちは就職活動に忙しいの」
「俺の前や後ろを危険にさらすような就活は禁止だ!」
「なら、和臣は上の口、わたしは下の口に配属」
「! 早速ですが、休日出勤を!」
抱きしめようとしてくる和臣を身体をひねってかわし、下半身にタックルを見舞ってきた藍子もレスリングさながらに潰して制する。
「俺の前も後ろも上も下も、全部俺のもんだ!」
「誠一郎君、それは受け取り方によってはとても寂しいです」
「知った事かよ! 一般人が早々体験しないような憂き目に遭うのは御免だ!」
「それは困りましたね」
本当に困った顔で悩み始める和臣。
「誠一郎、パワハラ」
「お前等のセクハラはどうなる!?」
「そんな誠一郎にインターンシップ」
素早く起き上がり背後を取ろうとする藍子に不覚にも腰を取られてしまう。
「……ふふっ」
「和臣!? 今の意味が分からないし、面白くもないからな!?」
「いえいえ、面白いですよ」
誠一郎と藍子のとっくみあいを見ながら、なにやら満足げな笑みを浮かべる和臣だった。