第十七話・「もう一度、勃起したいんだ……!」
化石とかしつつある旧世代のメディアを再生器機に挿入したあと、教師が思い出したようにぽんと手を叩く。頭をボリボリとかきながら話す様は何ともけだるげで、教師というよりは出不精な研究者の風体である。
「あー、そうだ。田中和臣は急な用事で一次的に早退するそうだ。ま、財閥の三男坊ってのも大変だよな」
独り言のようにぶつぶつと言って、教師は教卓に腰掛けた。
おそらく、それは和臣による偽りの情報だ。和臣が周囲から信頼されているからこそ、実行できる嘘だ。嘘は、たくさんの信頼を積み重ねた上で一番効力を発揮する。露見すれば全ての信頼を失う諸刃の剣ではあるが、ここ一番では真っ先に人々の信を取ることが出来る。さすがは和臣と言ったところだった。
「俺は何をやっているんだ……!」
真っ暗になった視聴覚室で拳を握りしめる、最後尾の席を確保できなかった悔しさをもてあます。歯ぎしりし、席に座ったまま身震いする。準備は万端だった。保健室の見取り図は頭の中に入っている。棚の配置から、ベッドの構造、花瓶の配置まで頭にたたき込んだ。なのに初めからつまずいた。単純なことでつまずいてしまった。和臣が、藍子が、協力してくれているのに。
「……このまま」
やめれば何のリスクもない。もちろんリターンもない。何事もないまま、また普通に戻るだけだ。やろうとしたけどやめた、計画したけどやめた、色々準備したけどやめた、最初でつまずいたからやめた。それでいいじゃないか。また普通に戻れるのだから。いつもの三人で馬鹿話をする日常に戻れるのだから、途中でやめたって――
「――……いいわけあるかよ」
誠一郎の中で叫ぶ声がある。
「リスクがないなんて嘘っぱちだ。日常に戻れるなんて嘘っぱちだ。このままやめたら、俺はあいつ等をがっかりさせることになる。勃起部部長としてそんなのは許されない。許されるもんか。それになにより、このままやめたら俺は、ただの童貞野郎だ……! インポ野郎じゃないか……! 嫌だ。嫌だね。俺は起ちたいんだ。もう一度、勃起したいんだ……!」
誰よりも心強い仲間、頼もしい仲間……。その信頼を裏切れるわけがない。
信頼は裏切るためにあるのではない、応えるためにあるのだ。
「いつか、あいつ等に俺の最高の勃起を見せてやるんだからな……!」
暗幕の中、テレビの画面の光が唯一の光源。けだるそうにビデオを眺める生徒達の青白い顔、顔、顔。その中で異彩を放つ一つの表情。
ひときわ生き生きとした顔が照らし出されていた。
それが誠一郎の顔だった。
誠一郎はこっそり背後の座席に座る生徒達の様子をうかがう。誠一郎側の生徒は机に突っ伏して寝息を立て始めていた。誠一郎はチャンスとばかりに素早く机の下に身体を滑り込ませる。そのまま、一番右の座席であることを利用して座席を抜け出した。あとははいはいを覚え立ての赤ん坊のようにこっそりと動いていく。
背後の座席に座っている生徒を起こさぬよう、視聴覚室を抜け出す。
「よし……やれた。次は……」
保健室に移動しながらポケットをまさぐる。藍子のハンカチに重なるようにして硬質な感触があった。手のひらにすっぽりと収まるそれは、和臣が渡してくれた小型のヘッドセット。片耳専用で、マイク機能も兼ね備えている。
誠一郎が早速耳に突っ込むと、まるで計ったのかのようにヘッドセットから声が飛び出した。
「誠一郎君、僕の声が聞こえますか?」
安心が声から伝わってくるようだった。穏やかで明瞭な和臣の声は、焦りに支配されつつある誠一郎にとって、まさに救いであった。
少し視界がにじんだのは言わなければ隠し通せるだろう。
誠一郎は気持ちを落ち着けるようにゆっくりと声を発した。
「……ああ、聞こえる。良く聞こえるよ」
「それは何よりです、ところで誠一郎君」
部室で話しかけてくるのと同じトーン。
「実は、僕にはヘッドセットをして一度やってみたかったことがあるのです。ちょうど今のように背もたれ付きの椅子に座ってですね、キーボードをすごい速度でカタカタとやっていて、こう……突然ですね」
すごい勢いで背後を振り返る音。どうやらキャスター付きの椅子に座っているらしい。摩擦音がイヤホンから聞こえた。
「ダメです! 制御できません! ――ってやつです。どうです? 憧れるでしょう?」
「やばいな、それ。すげぇ憧れる。俺もなんかこう……最終防衛ラインが突破されたことを大声で司令官に伝えたいぞ」
「同感です」
いつもの調子が戻ってくる。緊張がほぐれていく。
和臣は俺が緊張しているのを見越して、あえてこんな話を振ってきたのかも知れない。だとすれば、なんて気の利いた友人だろう。
誠一郎は胸が熱くなった。