第十五話・「お椀型」
そんなこんなで、作戦開始時刻はあっと言う間に訪れてしまった。
軽い打ち合わせ程度の説明はあったものの、畢竟するところ、論理的な戦術や、特殊部隊らしい打ち合わせも戦略も詳しく打ち合わせないままで――その雰囲気はあったが――決行の時を迎えてしまったのであった。
その責任の所在がどこにあるかというのは、改めて問うまでもない。
「では、オペレーション・スクール・ナース・オフィス……スタートです」
無言のまま三人が視線を合わせる。まばたき一回の間でアイコンタクトは解除され、各自の持ち場に向かう。
静かなる作戦開始であった。
毎日が特殊部隊であるような無表情の藍子は、音もなく間教室へ入っていく。それに数秒遅れる形で誠一郎も口笛をふきながら、そわそわきょろきょろと何とも不自然極まりない入室をした。普段吹かない口笛を吹いてまで入室したのには訳がある。
……ただ単に、いざとなったら緊張して普段の自分を忘れてしまっただけだった。
この世の中、普通のことをいかなる時も普通に出来る人間というのは、実のところ数少ない。一流アスリートですら、本番に普段の自分の力を出そうとして失敗している。練習で出せないものを本番では出せないように、意識して普通を演じることは難易度が高いのだった。
「あー、藍子きたー」
けだるげな声の主は、藍子のクラスメイト中村絵里である。茶髪の先をくるくると指に絡めながらため息を吐く。藍子が無表情のまま絵里を見つめていると、絵里はなにやら怪しい笑みを浮かべて藍子に近付く。
「ねぇねぇ、マジ今日の身体測定鬱なんですけどー、藍子はそう思わない?」
早速、自然にこの後の身体測定の話題に捕まっている藍子である。
「思わない」
藍子は後ずさることもなく、にじり寄ってくる絵里に答えを返す。
「アタシなんか特にこの胸の辺がさ、気になるのよねー……っと!」
むにゅ、という音がしたかは定かではないが、少なくとも藍子の胸は無造作に絵里の手のひらに収まっていた。
そして、わきわきと指をいやらしく動かすと、むー、とか、うー、とか、ふむふむ、とか考え込む声を出しながらしきりに頷いていた。
「ぬっふふ、この感触……藍子、今回もアタシが勝ちをもらうよ」
茶髪で派手目めな女の子に無抵抗のまま胸を揉まれている構図に、教室中の視線が釘付けだ。
教室の男子を見れば、次々に男子が近くの席に着席していく。
自分の席でもないのに、だ。
視線は釘付けのままで、腰だけを下ろす。もしくは不自然な中腰で、腰が痛い振りを始める男子生徒まで複数人数いた。
誠一郎だけが所在なげにそのやりとりを眺めていた。
「しっかし、あれだよねー」
むにむにむにむに。
男子の悩みどころなど知らぬとばかりに、絵里は指を動かしたまま話を続ける。まるで流れ作業中の店員のようである。
「藍子のってさー、ちっさいんだけど形が良いんだよねー、お椀型って言うかさ、アレも上向いてるし、こちとらさ、ブラして寄せてあげて頑張って形整えるってのにー」
アレ。アレって何だ。藍子さんのアレってなんだ。
ま、まさか、ちく――……クラス中の男子の中でアイコンタクトが成立する。
ごそごそと、なにやら局部で変異するあるもののポジションを気にし出す者まで続出し始めた。
「ニシシ、やっぱり彼氏に揉まれてると違うんかねぇ……」
絵里のことさらいやらしい笑みを受け、ちらと藍子が誠一郎を見る。
「……最近は、ご無沙汰」
「おい!? あらぬ妄言を!?」
藍子の背後で、佇立したままどうしようか考えていた誠一郎が盛大に前足をすべらせる。
「えー、ちょっと葉山ってば、藍子はべらしてるくせに何贅沢いってんのよ、藍子みたいないい女、アタシをのぞいて他にいないよ? 自分の立場わかってんの? ねー?」
襟首を捕まれて誠一郎がぐいっと引き寄せられる。きつい香水の匂いが首元から漂ってくる。自分の立場が分かっていないのは実は言い出した本人では……という素直な疑問が誠一郎の頭に湧いたが、何とか押しとどめる。
「分かってる、分かってるって」
「ホントー?」
「ホントだ、うん、ホント」
強気の瞳に気圧される誠一郎だが、そこは男子たる矜持が働いてか、言葉を震わせたりはしなかった。そして、捕まれた襟の手を無下に払ったりしなかったのも、この絵里という少女が見かけとは裏腹に自分の自己満足のためにそうしているのではなく、藍子を思ってそうしているのが分かったためだった。
絵里は審美眼を光らせる職人のようにじろりと誠一郎を見る。
「ふーん……ま、これ以上は藍子に殺されるから止めとくけどさー」
語尾を上げる口調はさすがに女子高生といった風情であった。
それが一変、絵里はその特徴的な口調の声音を極端に下げる。誠一郎だけに聞こえる低い声で睨みと共に声をぶつける。
「藍子泣かせたら、アタシ許さないかんね。いくら藍子が誠一郎至上主義だからって、シていいことってのがあるんだからさ。ま、アタシが何言ったってこんな見てくれだから、説得力無いけどね」
言うだけ言ってつかんだ襟首を解放する。
絵里からは解放された誠一郎だが、絵里の香水の匂いからは解放されなかった。停滞したまま誠一郎の鼻先を停滞する。
誠一郎はその香水の匂いにむせかえりそうになりながらも、何とか言葉を紡ぐ。
「そ、そんなことないぞ。俺はな、忠告は真面目に受けることにしてるんだ」
襟を正しながら、藍子を指差す。
「第一、見てくれなんか関係ないだろうが。藍子を見てみろ、見てくれは……見てくれは、まぁ……さ、最高かも知れないが、中身は一線を越えてる一級品の変態だ。多少見てくれはダメでも中身が最高ってんなら、もしも、その二つの選択なら、俺なら迷わずその逆を取る」
「ふーん……。……あっそ。それにさ、誠一郎、アンタ……フォローしてるつもりかも知れないけど、アタシのこと馬鹿にしてるでしょ。いきなり熱くなってキモイ、引くわ」
「お前が先だろが!」
「知らなーい」
「ぬ、ぐ……」
背を向けて席に戻ろうとする絵里に歯がみする誠一郎。歯ぎしりしながら先程の言動を思い返す。
脳内アナウンサー曰く。
――今のシーンリプレイでもう一度。
サッカーのゴールシーンのように他角度からリプレイされる音と映像。確かに自分でも恥ずかしいことを熱く語ってしまったことに気が付き、顔が真っ赤になる。もがき苦しむ誠一郎。
その光景を肩越しにちらりと絵里が振り返る。真っ赤になる誠一郎に半ば呆れつつも、
「ったく、馬鹿じゃないの。……。ちょっと…………格好良いじゃん」
「なんだ?」
語尾が消えてしまって聞き取れない誠一郎が、眉を訝しげにたわめる。
「胸の形がいい藍子が羨ましいっていってんのよ。絡んで悪かったわね」
手をひらひらと振る絵里の前に、散々胸を揉まれていた藍子が立ちふさがる。
闇夜に暗躍する暗殺者のような音もない動き。
「……誠一郎は誰にも渡さない」
声にならないつぶやきだったはず。
「いやいや、誰もこんな産廃いらないから!」
ぎくりとした絵里が反射的に言い放つ。
「産廃とは酷いな!」
「そんな誠一郎を私がプルサーマル」
「使用済核燃料だとっ!?」
「意味不明だし。付き合ってらんない。ていうか、そろそろ更衣室行かなきゃだし」
一瞬跳ね上がった心臓を落ち着けるように、絵里はジャージの袋を持つ。