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第十二話・「……私、壊れる」

 黒と白のチェスの駒のうち、黒のクイーンを取ると地図上の保健室の上にとんと置く。


「保険医である高木奈緒美先生は、普段はおっとりしていますが、仕事には厳しい先生です。時間に遅れることや、予定外の行動をする先生ではありません」

「そうだな、奈緒美先生はそういう人だ。ふんわりしていてすごく優しくて頼りになって、何より女性らしい包容力に溢れた先生だ。そして、いざというときには厳しく叱ってくれる……理想の大人だな」


 保険医らしく私服の上から白衣を纏った姿。長い髪をお団子状に頭の上に纏めているせいか、ほんわかした顔が快活さを増し、より小顔が強調されている。お団子先生などと馬鹿にした輩が夜道で何者かに襲撃されたとか。


「……大きい胸がいいの?」

「俺の発言と回想のどこに、その単語を引き出す要素があったか教えてもらおうか」

「発言と回想にはなくても、誠一郎のいやらしい顔で――」

「男ってこれだからっ!」


 がくりとくずおれる誠一郎。どうやら藍子に図星を突かれたらしい。


「誠一郎、ドンマイ。大きいものよりも小さいもののほうがいいってことを、私が誠一郎に教えてあげる。フロントホックとか、スポーツブラとか……他にも色々」

「何で下着の話なんだ? 俺はてっきり直接的な手段で来るのかと思ったぞ」

「それもそれでいい。誠一郎が望むならすぐそうしてあげる。でも、今はもっと別の角度で魅力を訴える」

「誠一郎君、藍子さんはこう言いたいんですよ。バリエーション豊かな下着を楽しめるのは胸が小さい方だと。後ろに手を回すのではなく、前から外す……それがフロントホックのもたらす冒険であり、情熱なのです。そして、またあるときはスポーツブラを無理矢理ずり下げ、あるいはずり上げる荒々しさに興奮し……と、誠一郎君には伝わっていただけたようですね」


 誠一郎を見る和臣がにっこりと嬉しそうに微笑む。


「誠一郎、ハンカチ」

「あ、ああ、すまない。俺はまだまだ下着のなんたるかを分かっていなかったんだな。くそ、戦場でもないのに出血してしまうとは情けない」

「でも懸念もありますよ。最近は日本人の食文化が欧米化しておりますから、日本人の平均のバストサイズは増加傾向にありますので、胸の大きな人達向けの下着も充実しております。つまり、前述した行為は今や普遍的なもので、胸の大きさに左右されるということは」

「……和臣が敵になるのなら容赦しない」


 藍子は無表情だが、その背後には黒いオーラを静かに纏った死神が立っている。


「めっそうもない! 僕はいつだって藍子さんの味方ですよ!」

「……。ならいい」

「じゃ、俺は和臣の味方をしようかな」


 意地悪な思考が誠一郎に軽口を言わせる。


「……っ!」


 藍子が何かに気が付いたようにびくりと肩を震わせる。誠一郎は和臣に視線を向けているために、斜め後ろに控えている藍子は死角になっている。

 誠一郎には見えないものを、和臣は見ていた。

 肩を震わせて、手で顔面を覆う藍子を視界に捕らえていた。

 部室の中の停滞した風が、ひとりでに藍子を中心として黒い渦を巻き始める錯覚。頭痛でも隠すような仕草ではあるが、様子が尋常ではなかった。美しい黒髪が逆立つほどの狂わしい感情と、冷や汗と、定まらない視線……。藍子の口は、浜辺に打ち上げられた死に損ないの魚のようにぱくぱくと、文章にならない出来損ないの無言を紡いでいる。

 和臣がそれを読唇することには。

 ……和臣が私の敵……誠一郎は和臣の味方……誠一郎は私の味方じゃない……私の敵……誠一郎は私を……私を……――

 複雑怪奇な方程式の結論が、最後にはたった一つの答えを導き出すように、藍子の言葉はある一つの結論に集束していっているように和臣には感じられた。その結論に藍子が達したときに迎える終末は、きっと光景として酷くおぞましい。そんな論拠もない答えが、泡立つように人の穴という穴から吹き出し、和臣に警鐘を鳴らした。


「誠一郎君」

「ん?」

「今のは冗談だと言ってください」


 和臣のにこやかな表情。しかし、誠一郎にはそれが焦っているようにも見えた。それが一体何を意味するのか、誠一郎にはとっさに分かりかねた。


「ん? なんでだ?」

「どうか冗談であると言ってください。お願いします」

「……分かった。……冗談だ」

「良くできました」


 和臣が安心したように笑ってみせる。教え子の成長を見守る教師のような笑みだった。


「藍子さん、ということですので心配はご無用ですよ」

「……」

「藍子がどうした?」


 後ろに控えていた藍子を振り返る誠一郎。


「……藍子?」


 藍子は右手で顔を覆ったまま、静止している。極度に怯えたような風体は脱したものの、いましがた自分自身に訪れた台風が一体何であったのかを分からないような、呆けたような顔をしていた。渦巻いた風は台風一過を思わせるように、綺麗さっぱり無くなっていた。錯覚で良かったと和臣は内心ほっと胸をなで下ろす。


「どうした、気分でも悪いのか?」


 誠一郎が心配そうに、藍子の額に手のひらを押しつける。額は低血圧の藍子にしては珍しく熱く火照っていた。医者ならば間違いなく相対を言い渡す体温である。


「……誠一郎、冷たい」

「それだと俺の性格のことに聞こえるぞ」

「誠一郎、冷たい」


 薫香がふわりと揺れた。


「お、おい!」

「おやおや」


 藍子がまるで誠一郎の隙間に入り込むように、するりと身体を密着させる。誠一郎の存在を感じ取るように。人が人に触れられる最大の表面積を藍子は求めていた。夏服であることもそうだが、薄着はあっと言う間に体温を肌から肌へ伝達する。藍子から誠一郎へ体温は逃げていく。

 甘い匂いと、柔らかい肌、透き通るような髪の感触。藍子を構成するその要素は、どれもとびきり過ぎて誠一郎は男女を感じる以上に緊張してしまう。


「誠一郎で、私の熱、冷ますの」


 誠一郎の身体に触れた小さな言葉は、吐息と共に誠一郎の制服に吸い込まれていく。


「誠一郎と、私の間には、真空さえあればいい」


 さらにぴったりと身体を密着させる。藍子と誠一郎を隔てるわずかな空気の隙間さえうらめしいのだろうか。ベストポジションを探すように身体をもぞもぞと動かしてくっつこうとする。無いとはいえどほのかにふくらんだ藍子の胸は、下着ごと誠一郎のみぞおちのあたりでぐにゃりと潰れている。下着のわずかに硬質な繊維の感触、その内側には、確実に人の身体で一番柔らかいなものが二つ並んでいて、それは否応なく誠一郎の神経をかき乱す。


「も、もういいだろ、藍子。離れてくれ」

「……誠一郎」


 うずめた誠一郎の胸から上目遣い。凶悪すぎる角度で見上げられ、誠一郎はたじろいだ。


「……なんだ」


 顔を真っ赤にしながらそっぽを向く誠一郎に、藍子がとどめの一言。こともあろうに太ももを誠一郎の股の間にすり入れてくるおまけ付きであった。


「――ここ、固くした?」

「このビッチがっ!」


 態勢を入れ替えると、背後から藍子の左足に自分の左足をからめるようにフックさせる。神速で藍子の右腕の下を経由して、左腕を藍子の首の後ろに巻きつける誠一郎。

 最後に背筋を伸ばすように伸び上がらせる。藍子身体が例えようのない悲鳴を上げた。


「……誠一郎……私、壊れる」

「いいからこのまま壊れとけ。お前の思考回路同様にな!」


 ぎりぎりぎり。


「恐ろしい! これは恐ろしい! 誠一郎君、見事なまでのコブラツイストです。往年のアントニオ猪木を彷彿とさせるだけでなく、女性に対して容赦なく繰り出すその姿勢に、僕は驚きを通り越して感嘆の意さえ感じます。特に、両手をクラッチさせることで威力を増そうとしているところに、一層の容赦のなさが感じられますね」


 なぜかしきりにうなずく和臣であった。


「ところで……作戦の説明はいつさせてもらえるのでしょうか、誠一郎君? 藍子さん?」


 なぜかしきりに冷や汗を流す誠一郎であった。


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