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第十話・「おっぱいおっぱい」

 教室。

 朝のホームルームが始まるまでの喧噪に囲まれながら、誠一郎は頭を抱えていた。


「ぬぐぐ……」


 抱える原因となっているのは、学園門をくぐったときの六條との一幕である。


「くそ……駄目だ。なぜだ。なぜなんだ。六條さんの前に出ると俺は緊張の余り、いつものような上手い言葉が出てこないんだ……! うぬぬ……」

「日頃からそんな上手い言葉を言ってましたっけ?」


 和臣は誠一郎の背後の席。


「エロい言葉?」


 藍子は誠一郎の隣の席である。

 必要な人間を必要な配置につかせる漫画的な席配列で、誠一郎は額に汗を浮かべながら無理に笑ってみせる。


「うぐぐ……ふふ、いいさ、次こそは、次こそは……きちんとした会話を!」

「気を落とさないでください、誠一郎君。ほら、藍子さんも何か誠一郎君に言葉を」

「エロい言葉なら、かけてあげられる」

「これは期待できそうですね」

「誠一郎」


 頭を抱えていた誠一郎の頬を人差し指でつつく。


「……なんだ藍子」

「おっぱい。誠一郎、おっぱいおっぱい」

「大間違いだ! それで俺が元気になると思っているならな!」


 耳たぶにキスをする距離まで詰め寄られたせいで、甘い吐息が耳にくすぐったい。誠一郎が椅子を蹴倒す勢いで身体を起こす。電撃のような感覚がすごい勢いで背筋を駆け上がっていく。


「なった。誠一郎が元気になった」

「本当ですね」

「でも、ここは元気じゃないみたい」

「女性が男性のそこにためらいなく手を伸ばすな」


 ズボンの真ん中にためらいなく伸びてくる手をパチンとはたき落とす。


「誠一郎はためらいなく男性のそこを伸ばしていい。そのために、わたしというおかずがいる」


 叩かれた手を痛がりもせずに、立ち上がっている誠一郎を上目遣いに見つめる。


「あ、藍子、お前は俺のオカズには――」

「そういえば聞くのを忘れていましたが、本日の起床時、誠一郎君は……夜間陰茎勃起現象をされましたか?」


 和臣の声が誠一郎の言葉尻をかすめ取る。


「そのいかにも正式名称っぽいものが朝立ちのことを指しているとするなら、残念ながら答えはノーだ。……俺はまだ独り立ちできないでいる。色々な意味で俺は自立できない子供なのさ」

「なにやらシニカルな雰囲気ですね」

「……独り立ちできない誠一郎、かわいそう。……おっぱいおっぱい」

「頭を撫でるのは構わないが、よしよし、の代わりにおっぱいという言葉を使うんじゃない」

「誠一郎が、元気になると思って」

「マンネリは駄目ということですね、勉強になりました」

「分かった。次は、足でやってみる」


 椅子に座ったまま足を立てて、黒いニーソックスをいそいそと脱ぎ始める。椅子の上に足を立てたせいで、短いスカートは、重力に堪えられずにすとんと太ももの付け根に向かって落ちていく。

 それが意味するところは……。

 透き通るような白いふくらはぎから、柔らかそうな太ももから、お尻の丸さから、純白の下着から全てが誠一郎から丸見えと言うことだ。反則的に色っぽい仕草。ニーソックスはするりとつま先から解き放たれ、整えられた足の爪までも一般公開される。

 藍子は、その神の造形とも呼べる美しい足を、そのまま誠一郎に向かってそっと伸ばしてみせた。


「足で……する」


 その神々しい光景に気が付いた生徒は、口をあんぐりと開けたまま、あるいは雑談のキャッチボールを受け取ることも出来ずに後方に逸らしたまま、視線だけで藍子をロックオンする。

 教室の喧噪が一気に静まっていく。

 集中力の限りを尽くし、記憶に藍子の光景をインプット。類い希なる協調性だった。


「あ、足を下ろすんだ、藍子。クラスメイトの心がみだりに揺さぶられている」

「……分かった。誠一郎が言うなら、下ろす」


 教室中の男子からため息がついてで、元の喧噪に戻りかけ――


「椅子の上で足を立ててニーソックスを履くのも禁止だ!」


 即座に藍子へとロックオン。


「さすがは藍子さんです。どのような振る舞いをしてもお美しい。脱ぐときと、着るとき、どちらにも様式美がありますね。往々にして、男は脱がせる方に意識をしがちですが、着させる方にも美しさがあると僕は思います」


 最上級のオペラにスタンディングオーベーションをする観客のように拍手する和臣。


「和臣、お前がそうやって甘やかすから藍子は調子に乗るとは思わないのか」

「そうでしょうか。僕は誠一郎君が甘やかさないから、藍子さんが頑張るのだと思うのですが」

「そ……それは違う」


 和臣の言葉に、喉元まで出かかった言葉が声になることを拒否する。


「そう言うことにしておきましょう」


 ドスンと椅子に腰を落とし、ふてくされたように口を一文字に引き結ぶ誠一郎であった。藍子は言われたとおり椅子に足を立てるのをやめて、ゆっくりとニーソックスを履いている。


「ねぇねぇ、藍子」


 三人の会話が一段落したと見たのか、藍子の前の女子生徒が藍子に話しかけていた。


「今日の身体測定のことだけど、体操着に着替えて午後一から保健室だったよね?」

「……うん、そう」

「了解、サンキュ。あ~あ、これじゃ、お昼は抜かないと駄目じゃん……」


 簡単に用件だけを済ませた女性生徒が前に向き直るのと同時、誠一郎の脳内フィラメントに電流が流れる。


「身体、測定……?」

「ええ、確か、本日の午後に予定されていますね。それが何か?」

「……これはチャンスだ」


 凶悪な微笑。


「ふふ、ふふふ……決めた、俺は決めたぞ。今ここに勃起部の最初の活動を宣言する」

「ええと、声高らかに宣言するのは控えてくださいね、もうすぐ先生も来ますし、何となく内容が内容だと思いますので」


 バッターに落ち付けの仕草をする監督のように、両手でトーンダウンを指示する。それにこくりとうなずいて、誠一郎は後方の誠一郎に顔を近付ける。


「ああ、興奮を抑えきれないとは俺らしくもない。……和臣、俺は――のぞきをする」

「のぞき……。それが誠一郎君の最初の餌食――もとい、オカズになるのですね」

「そうだ。記念すべき勃起のための最初のオカズだ……いや、男の尊厳を再構築するための地盤確保と言い直してもいい!」

「言い直す前と後では、なんだか壮大な違いがありますね」

「……わたしは、どうすればいいの」

「藍子、すまないがお前の出る幕はない。待機だ」

「……」


 頭ごなしに却下され、藍子は押し黙る。

 誠一郎にとっては最高の協力者である和臣との作戦に全戦力を傾けているので、仕方がないといえば仕方がなかった。ピッチャーマウンド上に集まった選手のように口元を隠して、誠一郎が会話を続行する。


「和臣、早速だが協力して欲しい。昼休みに部室へ緊急集合だ。そこで作戦を練る」

「誠一郎、わたしは……」

「だから今回は待機だと――そうだ、身体測定の場所は保健室だったな……。詳細な見取り図を作成しておいてくれないか」

「拝承です。薬品の配置から、ベッドの下まで分かるものを作成して見せますよ」


 笑顔で困難な依頼を承諾する。


「それでこそ、和臣だ……!」


 武者震いを隠しきれない。

 これほどまでに興奮する行為が世の中にあっただろうか。いや、ない。

 今ならば全国の犯罪者達がなぜそんな無謀な濃いに熱中できるのか、少しだけだが分かるような気がする。アダルトビデオや、エロ本、エッチなサイト、ゲーム……氾濫し、浸透した性を手に取ることで確かに性欲は満たされるかも知れない。

 しかし、それはあくまで仮のものでしかない。偽物でしかない。本物は、そこにはない。

 本物は戦場にのみあるのだ。

 戦場の風、それが人間を大人にする。

 リスクのないものに何の意味がある。リスクを押して得た宝の価値に人は興奮し、歓喜する。ハイリスク、ハイリターン。

 そうだ、どうして今までそれに気がつけなかったんだ、誠一郎!

 俺はやる。勃起部の栄えある第一回目の活動として!

 わなわなと震える誠一郎。血で汚れているわけでもない両手を見下ろす。


「これが、生きているという実感なのかっ……!」

「誠一――」

「うるさい、待機だ。お前はしっかり身体測定を受けろ」

「……。分かった……待機する。でもその代りお願いがある。うまくいったら……誠一郎がわたしを身体測定して」

「ん……? あ? ああ、いいぞ、わかった」


 自らの意思で犯す禁忌。その興奮に打ち震えていたせいで、誠一郎は藍子の妥協案を聞き逃してしまう。


「! 全力で、待機する……!」

「や、安請け合いしてよろしいのですか?」


 慌てたように誠一郎をうかがうが、狂気に染まった誠一郎には無駄なことであった。


「どうせ簡単なことだろ、知ったことか。それより今は作戦開始が楽しみで仕方がない……っ!」


 映画には、最初は調子よく暗躍していたが、最後に追い詰められて見苦しい命乞いをするボスがよく登場する。

 誠一郎の笑いは、それに似ていたと某クラスメイトは後に証言する。


セクハラのようなこの話も話数が十話になりました。蛇足ですが、各話の題名は、その回の台詞によって決めるのが、私のささやかなポリシーです。

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