第九話・「……言って」
両隣の美男美女は、もれなく頬が赤かった。おたふく風邪を引いたように頬を赤く張らす二人の美男女は、それでもどこか嬉しそうに頬を抱えている。サドとかマゾとかそう言った属性云々を超越して、誠一郎にそうされることが嬉しいという感覚でさえある。
「誠一郎……痛い」
「誠一郎君、痛いです」
「くそ……まるでウロボロスかメビウスの輪のようにぐるぐる話を戻しやがって……」
「長いものには巻かれると良いみたいですよ」
ぽんと手を叩く和臣の頭上を、のどかにツバメのつがいが飛んでいく。峠でダウンヒルバトルをする二台の車のように、同じコースを阿吽の急旋回でつかず離れず飛行するツバメに、目を奪われる。と、同時にため息を吐く誠一郎は、その二匹のツバメを羨ましそうに眺め始めた。
「長いものに巻かれるより、わたしは縛られたい。恋人的な意味でも、肉体的な意味でも。……強く。強く、誠一郎に」
「束縛ですか、いいですね。愛し合う男女ならばこそ許されるインモラルな行為です。もちろん、両方の意味で、ですが」
ブルーインパルスの如くアクロバット飛行を繰り返すと、やがてツバメは二羽仲良く電線の上に止まる。こくりと二羽うなずくような仕草をすると、また飛び立っていく。
誠一郎が思い浮かべたのは、恋人同士ではしゃぐ浜辺の一幕……きゃっ、冷たい! やったなっ、このっ! あはは、うふふ……的テンプレートな展開。
爽やかな朝に目を細める誠一郎。
ツバメはなんて自由なのだろう。俺も自由になりたい。朝っぱらから嫉妬とか束縛とか、愛憎渦巻くことのない自由な世界へ……――そうして、逃避の先に輝く朝の光が誠一郎を包み込む。
「和臣、違う。束縛ではない。緊縛がいい。強く。きつく。わたしの肌に跡が残るくらい……激しく。荒々しく。わたしが誠一郎の所有物であることをわたしの身体に教え込む。……調教する」
「藍子さん、あなたって人はなんて……! 聞きましたか誠一郎君、藍子さんにここまで言ってもらえるなんて、あなたはなんて幸福――……誠一郎君?」
ああ、世界は、なんて綺麗なのだろう。新緑の鮮やかさ、朝露の輝き、世界はこんなにも儚く美しいのに……! 昔の俺ならば、それを純粋な心で受け止めることができただろう。美しいものを美しいと感じることが出来ただろう。
「誠一郎君? どうしたのですか、そのような菩薩のような穏やかな表情をして……?」
しかし、今の俺にそれは出来ない。俺は世界を敵に回してでも勃起すると決めたのだから!
「そうだ藍子、良い子にしていたら後で教室の椅子に縛り付けてやろう」
「!」
藍子の耳に猫耳が生えていたら、きっとぴょこんと跳ね上がったに違いない。無表情のまま誠一郎の顔を凝視する。藍子の瞳に映る誠一郎は、モーニングティーをたしなむ上流貴族のように穏やかであった。
「手は後ろ手に縛り上げて、口にはガムテープだぞ、いいだろう。俺を思っているなら、受け入れられる。お前ならきっと受け入れられるはずだ」
「! ……わたし、できる。誠一郎を受け入れる」
待てを言われた黒猫のような藍子が、ご褒美ほしさに腕にすり寄ってくる。
「ああ、誠一郎君の表情がみるみる恐ろしいものに……」
日射病患者のようにふらりと身体をよろめかせる。誠一郎は身体を寄せてくる和臣の肩を押しやりながら、切り替えるようにため息を吐いた。
「……。冗談だ、真に受けるなよ、藍子」
「後ろ手に縛り上げる……口にガムテープ……クロロホルム……誘拐……身代金……ストックホルム症候群……禁断の愛……二人が一つに……わたしの小さい……誠一郎の大きい……痛い、でも、嬉しい……動いて……」
「真に受けるなっての」
最速での脳天にチョップが振り下ろされる。
「痛い。今、良いところだったのに。誠一郎の童貞が、私の処女が」
「勝手に俺の童貞を奪わないでいただきたい」
「わたしは勝手に奪われてもいい」
「奪わん」
「奪って」
「……誠一郎君、藍子さん、お話は一時中断に致しませんか」
「ん? どうした和臣――」
和臣の真剣な声の先。
学園の門に、腕章をした女が立っていた。
腕章には黒字で風紀委員会と書かれている。栗色の髪と強気さを前面に出す鋭い目。まるで研ぎ澄まされた刃物のような少女――六條七海が、腕を組んで仁王立ちしていた。
「相変わらず、朝から馬鹿な話には事欠かないのね」
「おはようございます、六條さん。今日も良い天気ですね」
笑顔を浮かべる和臣とは対照的に、無愛想を決め込む藍子。無表情ではない、無愛想。他人が見れば藍子はいつものフラットさを保っているように見えたが、誠一郎と和臣からすればそれは無表情でも険悪な部類に属しているものだった。だから、無愛想。
「おはよう、和臣君。……藍子、私には朝の挨拶はしてくれないのかしら?」
「……」
数秒の沈黙は雄弁なるものだった。
明らかな六條の拒絶と、それを受け止める藍子。火花散らすではない、抜き身の真剣を互いの首筋にあてがう極限の緊張感。それは鼻で笑う六條によって、簡単に打ち破られた。
「憎たらしい女」
「ろ、六條! ……さん」
頬の筋肉が強ばった藍子に気が付いて、誠一郎は慌てて会話に紛れ込もうとする。
「お、おはよう、今日も暑いな」
誠一郎は視界に入っているにもかかわらず、軽く無視されてしまう。
誠一郎は、ちくり、と胸が痛むのを感じた。
無視されるだけならばおそらくこんな痛みは感じなかった。むしろ、無視されなくなるまでつっこんでいくのが葉山誠一郎という人間だった。
しかし、誠一郎はそれが出来ずにいた。出来ないばかりか、制御できない痛みは黒い霧を発生させ、朝の親友との騒がしくも楽しかった喧噪を薄緒のように消し去っていく。
自分が自分で憎たらしい。誠一郎は痛みと共にそんなことを思った。
「ね、和臣君、昨日の話少しぐらいは考えておいてね」
誠一郎を無視したまま、六條は和臣に話しかけた。
「さて何のことでしょうか」
誠一郎の隣では和臣が微笑みを浮かべたまま空とぼけてみせる。肩をすくめる姿は絵になっていて嫌味の一つも感じさせない。ただし、それは嫌味を感じさせないだけで、好感を持たせることはない。唯一、和臣のいらだちを感じられる誠一郎ではあるが、今の誠一郎には無理なことであった。
棘を刺されたかのような痛みが、胸の奥に残ったままでは。
「……」
藍子の口元が声もなく動く。誠一郎、と彼女は声もなくつぶやいていた。
瞳の中には誠一郎が映ったまま。誠一郎の瞳の中にある痛みを正確に読み取る。
「……七海」
校門前に漂う不穏な空気が、学園の門をくぐる生徒達さえも避けて通させる。藍子の低い声は、その場に存在する人間の耳に否応なく滑り込む。突然、背中を駆け上がった戦慄に周囲の生徒達はきょろきょろと辺りを見回す。それを平然と受け止めるのは六條七海、その人であった。首筋には見えない刃が今なおあてがわれ、互いの喉元を切り裂こうとうかがっている。
「人形がしゃべったわ。驚きね。何年ぶりかしら?」
「……七海」
「そうね……真言宗大本山浄土寺の本尊秘仏の開帳ぐらい久しぶりじゃないかしら」
初めて藍子は自らの意思で誠一郎の前に進み出た。
「誠一郎に挨拶して。おはようって、言って」
誠一郎をかばうように前に出、藍子に音もなく近付いていく。
「誠一郎は、言った。おはようって、言った」
藍子と六條。手を伸ばせば触れることの出来る距離。
「どうして私がこんな駄目人間に挨拶しなきゃいけないのよ」
駄目人間。その言葉が槍のように誠一郎に伸びる。その槍を誠一郎に突き刺さる寸前で受け止めるように、藍子は六條の手首を握りしめていた。
「……言って」
六條が力でふりほどこうとするがびくともしない。藍子の静かな力が六條を制する。
「……ぐ……放しなさいよ」
長い前髪からのぞく、切れ長の目。
「言って」
応じるは、絶対零度。
「私は学園の風紀を守る風紀委員よ。こんなことをしてただで済むと思っているの?」
「藍子、長くなるようなら、俺は先行くぞ」
誠一郎の精一杯の軽口。
平常時の声で言えただろうか。何気なく言えただろうか。
誠一郎は緊張の中でそんなことを考えていた。
「誠一郎……。でも、誠一郎は挨拶した。おはようって、言った」
「気にすんなよ。それより遅刻するのは嫌だぞ、俺は」
「行く。誠一郎が、そう言うなら」
生まれた軋轢が実は夢でしたと言わんばかりの、変わり身の速さだった。六條の手首を解放した藍子は、ご主人様に呼ばれた犬のように素早く誠一郎の隣に並ぶ。誠一郎の右。指定席。
誠一郎はたしなめるように藍子の額を軽く握った拳で小ずく。
藍子は誠一郎の人差し指が触れた箇所にそっと手を這わせ、噛みしめるようにぼそりとつぶやく。
「……。誠一郎が痛いこと、わたしも痛いこと。それは嫌だから。わたしのせいだから」
藍子の声を聞いて、誠一郎は大きく深呼吸する。ちくりと痛む胸の痛みを振り切るように、六條を振り返る。
「六條さん」
夏の日差しを後方に控える六條が誠一郎を視界に捕らえる。仇敵を見るに値する、鋭い眼光が突き刺さる。
しかし、誠一郎は、それに恐怖や嫌悪といった負の意識を抱くことはなかった。
胸は変わらず痛い。ちくり、ちくりと痛む。
それでも、痛みに耐えるだけではどうにもならないと思ったから、純粋に反発したかった。
訳の分からない痛みに反発したかった。
「――おはよう!」
手を挙げて一言。
誠一郎の大声に六條は一瞬虚を突かれた顔になるが、次の瞬間には苦々しい顔で手首をさすりはじめる。
「…………」
「さて、僕も行かなくては。では六條さん、お大事に」
一礼して去っていく。和臣が小走りに誠一郎の左に並ぶ。
「葉山、誠一郎……。藍子が唯一、心を許した人間……」
怨嗟を吐く六條の手首は赤く、手の跡がくっきりと残っていた。
「……ふざけないで。そんなことは許されないわ……許されないのよ……!」
Q:シリアスでしょうか。
A:いいえ、ラブコメディです。