プロローグ
「わたしはあなたのおかずになりたい」
蒼穹の真ん中で、鳶がつまらなさそうに飛んでいた。
「わたしはあなたのおかずになりたい」
校内放送のように二度繰り返された少女の発言に、昼休みの教室が戦慄する。
窓からそよそよと頬をなぜる風。その風が運んできた悪戯であれば良かったと、葉山誠一郎は思った。髪質の堅さからなのか、短い髪の毛がツンツンと逆立っている少年は、慣れたような仕草で眉間を押さえる。
「分かった。お前の言いたいことは分かった」
「分かってない。他の誰でもない、わたしが誠一郎のおかずになる。そうすれば解決」
眉根一つ動かさない涼しい顔で言ってのける少女。所信表明演説で壮大な目標をぶち上げる内閣総理大臣顔負けの所作である。
「わたしが、国方藍子が、誠一郎の専用のオナ――」
「それ以上言うな藍子! ここは公衆の面前だぞ。お前の発言は火に油を注ぐようなもの、いや、燃え上がる火の中に爆弾を投げ込むようなものだ、うん」
「んんー、んんー……ぷは」
即座に誠一郎に口を塞がれた藍子。
「……誠一郎、どうしてなの。わたしには自覚がある。誰よりも誠一郎の性奴隷として――」
「だから、やめい!」
「んんー」
二度、口を塞ぐ。
「いいか、藍子、お前は俺がいいとまでしゃべるな、いいな?」
周囲に聞こえない小さな声で注意する。
「(こくこく)」
悪びれのない見目麗しくも涼しい顔が、肯定の意味を込めて上下に動いた。それにつられて、腰まで及ぶ黒髪がしなやかに揺れる。櫛を通そうとすれば力をかけなくても櫛の方から滑り落ちていきそうな上質な髪質。テレビコマーシャルで過剰に演出される髪の毛が、現実に体現されたかのようだ。
「よし、良い子だ。お前は少し黙ったまま反省していろ」
「(こくこく)」
餌を目の前に待てを強制された忠犬のようなうなずきっぷり。
ため息の後、誠一郎は、改めて隣の席に座る藍子を見る。ぱっちりつぶらな双眸も、鉛筆すら乗っかりそうな長いまつげも、いい仕事をしている白磁も負けを認めるような肌艶も、黄金比に整えられた鼻梁も、この少女は当たり前のように有している。美しさというものを選りすぐったら国方藍子が出来上がった……そんな馬鹿げた思考すら見る者にさせてしまうのが、この国方藍子という少女である。それでも、うっかり者の神様が付け加えるのを忘れたものがあるとすれば、エアーズロックの壁面のようにぺったんこな胸(それはそれで価値があるが)と、最初から外れかかっている理性のたが……破天荒で一直線な思考回路であろう。
その傾倒した思考回路は、主義として一般にこう認知されている。
「ははは、相変わらずの容赦のない誠一郎至上主義ですね。ま、僕もその主義者のひとりですけど」
物腰の柔らかな声は、誠一郎の背後からだった。
振り返った誠一郎の目の前に、コーヒー牛乳のパックが二つ差し出される。パックを差し出したのは眉目秀麗な顔立ちの少年だった。藍子に負けず劣らず美しい髪は、ややもすれば不潔に感じさせてしまう長髪でありながらも、清潔感をふんだんに漂わせている。加えて、八頭身は軽く満たすであろう見事な長身は、決して痩躯ではなくインナーマッスルによる形成なのか、芯が太いモデル体型。一見しただけでスポーツが出来そう、という第一印象が世の老若男女から与えられるであろう。
「おう、サンキュ、和臣。何というか、主義って言っても藍子のはもはや病的レベルだ」
困ったようなため息を吐く誠一郎。
「あー……褒めてないからな、藍子」
頬をわずかに染めている藍子をたしなめる。照れている表情も無表情。ほんのりと染まる頬を見分けられるのは誠一郎と、和臣ぐらいである。
「はいどうぞ、これは藍子さんの分です」
和臣がにっこりと微笑む。ホストなら間違いなく指名ナンバーワンであろう完璧な微笑である。その証拠に和臣を横目に見ていた女子数人の目がハートマークに変わっている。恋に恋する少女のビジョンでは、きっと和臣は薔薇や百合やらものすごい数の花に囲まれていることだろう。白くきらりと輝く歯の演出付きで。
「藍子さんは誠一郎君と同じコーヒー牛乳で良かったのですよね?」
「(こくこく)」
藍子は無言でうなずきながらもう一つのコーヒー牛乳を受け取った。
「……? 藍子さん、どうしたのですか?」
「(ぶるぶる)」
「聞いてやるな、和臣。これは藍子にとっての試練なんだ」
「試練……ですか」
「ああ、試練だ」
「(こくこく)」
三人がほぼ同じタイミングでパックにストローを刺し、ちゅるると一口嚥下する。
言葉のないわずかな静寂が訪れた。
広い校庭の上空で、鳶がぴーひょろろとまるでのどかを絵に描いたように旋回している。教室内にわだかまっていたざわめきも、どうやら藍子のいつもの奇行として日常の中に溶けていったらしい。藍子の清楚可憐なたたずまいからは想像できない軽挙妄動は、日常茶飯事。火が付くのも早いが鎮火も早い。美女が絶対に言わない文言を素で言うのが藍子であり、それ故戦国時代の武将の台頭がそうであったように話題の興廃もあっと言う間なのであった。人間の環境適応能力も案外侮れないのである。
ストローの白がコーヒー色に染まり、二口目を三人で飲む。
誠一郎は自らの椅子にどっかりと腰を落ち着けながら。和臣は長身を隣の席に寄りかからせながら優雅に。藍子は両手でしっかりとパックを持って小鳥のように。
喉を潤すコーヒー牛乳の味はいつもと変わらず甘ったるい。
校内でしか売っているのを見たこともない無名メーカーのコーヒー牛乳は、誠一郎に学校に来ているんだな、と改めて実感させていた。
つかの間の小休止、開口一番は誠一郎だった。
「藍子、反省したらしゃべっていいぞ」
「……。誠一郎、もう終わり?」
「終わりとは何だ。もっとして欲しいのか?」
「誠一郎の今の言い方……いやらしい。いやらしくて好き。でも、わたし的にはもっと強い口調がいい」
「これで終わりじゃないぞ、もっと続けて欲しいのか、この牝豚が――みたいな感じでしょうか」
「ナイス、和臣。それ、それがいい。誠一郎、それ言って」
藍子は、涼しい迫力で誠一郎に顔をにじり寄せる。瞳の中には表情に表れない期待で充ち満ちている。
「言うか。なぜ俺が藍子を喜ばせなきゃならん」
「妻をよがらせるのは夫の勤め。時には妻からも夫をよがらせなければ」
さも当たり前の藍子の口調。迫り来る藍子の背後では愛欲が静かに燃えていた。
「さすがは誠一郎君、彼氏彼女の関係はすでに越えているわけですね、理解しました」
「するな。理解するな。俺はコイツの彼氏じゃない」
「昨日は駄目な日だって言ったのに。誠一郎は何度も何度も求めてきて……」
「さすがは誠一郎君、常人の倫理観はすでに超越済というわけですね、誤解していました」
「するな。理解も誤解もするな。俺の名誉のために藍子のネタをバラすとだな……駄目だって言っても求めたのは、藍子の実家が経営してる喫茶店、そこのペペロンチーノだ。ちょうど定休日で食えなかっただけだ。食いたいときに食う、それが俺のポリシーなんだ。だから、なんとしても食べたくて、俺はちょっとしつこく――」
「そう、しつこく誠一郎は私の敏感な部分を攻めたの」
「そうそう、お前はココが敏感で感じるんだよな……って、んなわけあるか!」
「……ぃゃん」
「いやんじゃねぇ!」
力んだせいかストローからコーヒーが飛び出す。
「ふむふむ、誠一郎君、藍子さん感じるココとは?」
「は!? 知るか!」
「……んんっ」
「んんっじゃねぇ!」
ついには力みすぎてパックからストローが飛び出す。
「そ、それにだな……藍子はどうだか知らんが、俺は残念ながら絶賛童貞中だっ!」
「わたしも処女。絶賛初めて募集中」
そのとき、教室中の男子生徒の耳がそばだった。
……ごくり。……処女なのか、国方さん……。おい、それより募集中ってなんだ……? いや、募集中は募集中だろ。 ……何を言ってるんだ彼氏を募集するなら分かるが、いきなり初めて募集だぜ……さすがは国方さん、パネェっす……。なぁなぁ、俺でも応募したら当選できるのか……? 〆切はいつだ……。
等々、妄想をかき立てられる男子諸君である。
「ふむふむ、誠一郎君は童貞。藍子さんは処女ですか。実は、お恥ずかしながら僕も童貞なんです。絶賛はされていませんけどお相手募集中ですね。良い相手が見つかった暁には優しくご指導いただきたいものです」
そのとき、教室中の女子生徒の耳がそばだった。
ごくり……童貞なんだって、和臣君……ぽっ。優しくご指導して……って、私、私が、和臣君を優しくリードしてあげられたら……ああしてこうして和臣君の美顔が恥辱に歪み……(ふらふら)。……? きゃっ! 由美がのぼせて倒れたわよ! 保健委員! でも、どうしてかな? もしかして、誰か心に秘めた人がいるとか……。……ごくり……誠×和……。な、なな、何をおっしゃているんです! ……そんな、そんな不謹慎なこと……和×誠に決っていますわよ!
等々、妄想をかき立てられる女性諸氏である。
「ごほん、あー、盛大に話が逸れてしまったな。よし、話を振り出しに戻そう」
ばんばんと机を叩いてリセットする。
「振り出し、ですか」
「ああ……藍子にはすでに言ったんだが……和臣、聞いてくれ」
地面に落ちたストローをあきらめ、パックの口を手で大きく広げる。
「はい? どうしました? そのような怖い声を出して」
背筋を伸ばして座り直すと、大きく開けたパックの口からコーヒー牛乳をゴクリと飲み下す。中のコーヒー牛乳が飛び出さんばかりにパックを置くと、誠一郎は切り出した。
「俺はお前が田中和臣であることを信用して打ち明ける」
前の席に座る和臣の右手を両手で強く握りしめる。握力は誠一郎の決意の表れであった。
「はい、なんなりと。僕も誠一郎君ならどんなモノでも受け入れて見せますよ」
その発言に一部の女子の顔が真っ赤になった。
誠一郎はそんな女子達を横目に、和臣にだけ聞こえるように声量を落とす。
「和臣、俺――」
何気のない昼休みの教室。
昼食時に弁当のおかずではないオカズの話で盛り上がるくらいには何気ない昼休みの教室。青空の袂では相も変わらず鳶が他人事のように空を回り、暑い日に暑いと意味もなく連呼する現代人ようにぴーひょろろぴーひょろろと鳴いている。窓から入り込んでくる夏の微風は、肌をなめ回したいやらしい熱気を連れて、反対側の廊下の窓から一見さんのように早々に通り抜けていく。
季節は夏だった。
夏本番だった。
「――俺、勃起しなくなった」
そんな夏の物語。
興味を持って下さった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
突然連載を始めることになりました、NAOと申します。端的に自己紹介をするなら、SennheiserヘッドホンとISAMU KATAYAMA BACKLASHブランドをこよなく愛する小説家になろう作家……というところです。その他完結済連載もありますので、興味をもたれた方はそちらもどうぞ。ちなみにこの小説ですが週2回更新を目標にしております。どうぞ、よろしくお願いします。
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