まさかこの僕が、当て馬なわけないだろう!
春の始めのことである。アルデンウッド魔法学院の三年生が、8月の卒業式を迎えるまで残り半年を切っていた。
ひと月後の5月初頭には、卒業後の進路に影響する統一試験が控えている。進学を希望する生徒の間には緊張が走り、この学校に通うモンタギュー伯爵家の長男アシュトンも、例外ではなく友人とともに図書館に立ち寄っていた。
魔法学院には、世界中の様々な魔導書が収められ、その豊かな蔵書と、芸術的な建物自体がこの国自慢の資産だ。
しかし、彼の目的は本ではない。
幼馴染で同級生のエミリア・ロウ伯爵令嬢である。
「やっぱり……! 図書館にいる上に魔法薬学の書架だなんて! おかしい。絶対におかしい!」
アシュトンは、棚の影に隠れてエミリアの後ろ姿を追いかけた。彼女の淡いベージュのくせ毛がふわふわと揺れる。
彼女が足を進めるたび、その髪と、膝下まである制服のスカートが一緒に広がった。
「気になるなら、話しかけて直接聞けばいいんじゃないか?」
アシュトンの後ろに立っていた彼の友人、マーカスが呆れた声で呟いた。
アシュトンは友人を無視し、輝かしいブロンド髪が顔にかかってしまうのを鬱陶し気に耳にかけた。その視線は、エミリアに縫い付けられたままである。
「俺はもう机に戻っていいかな。天文学のレポートが……」
「前髪を何度も直してるのもおかしい」
「前髪くらい直させてやれよ」
「直すところなんかないのに、ずっと窓をチラチラ見ながら歩いてて。絵の具が頬についていても気づかない彼女が?」
「そういう気分の時もあるだろう。もう俺は戻る」
「魔法薬学は薬が爆発するし、訳がわからなくて一番苦手と言っていたのに」
「統一試験の前に苦手科目に向き合うのはいたって普通だ」
「それなら僕に聞けばいいんじゃないか? 僕はテストで学年一位だよ! それに幼馴染だ」
「じゃあこそこそ隠れて追いかけずに、真正面から話しかけてこい」
マーカスはシルバーのメガネを直すと、アシュトンの背中を押した。
「あっ……!」
アシュトンは前のめりになった。書架に手をついたが、勢い余って倒れそうになる。力強く踏み出した足が静かな図書館では無視できない音を立てた。
アシュトンはおそるおそる顔をあげた。前髪の間から、海のような青い瞳が覗く。いつもは自信に満ちているその瞳も今は気まずそうに泳いでいるが、彼とエミリアの目が合うことはない。
少し先の書架の間で、丸い魔導具のメガネをかけたエミリアの茶色い丸い瞳は、彼女よりずっと背の高い一人の男性を見上げていた。
彼女の瞳は、魔力を普通の人とは違う感覚でとらえると聞いている。そのせいで特殊なメガネをかけないと気持ち悪くなってしまうため、常にメガネをかけている。
メガネをかけても、エミリアは無意識に人を見るのを避けがちだ。その中で、家族以外では例外のように、エミリアが自分と常に目を合わせて微笑んでくれることは、アシュトンの自尊心を満たす。
そんな彼女が、他の男を見ている。
男性は赤茶の髪に緑の瞳をした優し気な雰囲気で、制服は着ていない。教員にしては少し若すぎるその顔は、アシュトンの記憶にもあった。
三年前に卒業したはずの先輩。ノーマン侯爵家の次男、セオドアである。
落ち着いた顔でエミリアと話していたかと思うと、ふと書架に目を止める。エミリアの小さな手が一冊の本に伸びる。彼女の踵が上がる前に、セオドアはエミリアの目的である本を取り出して、それを彼女に渡した。
彼の口元が、優しく弧を描いた。
「は? なんだあの顔! 恋が始まるワンシーンのつもりか?」
アシュトンは親友のマーカスを振り返ったが、彼の姿はそこにない。
ずっと遠く、真っ直ぐ進んだ先の元いた席で、レポート用紙を広げているのが見えた。
*
「薄情な裏切り者め」
マーカスが重ねた本の上に、もう一冊本が重なる。
アシュトンは顔も声も不満を隠さず、マーカスの隣に腰掛けた。マーカスは顔をあげることもせず、一心不乱にペンを動かしている。
「レポートが終わってないんだよ。エミリア嬢が急に魔法薬学に関心を抱いた理由はもう謎解きできたんだろ? 統一試験に集中しろよ」
「まだ謎は解けてない! 偶然卒業生と一緒にいただけだ」
「女子が前髪を気にし出して、急に今までと違う行動をするようになったとしたら、その理由は十中八九恋――」
マーカスはアシュトンの顔を見て、小さくため息をついて本を閉じた。
「と妹が言っていたが……事実は確認しないと分からない」
「エミリアが、恋?」
「可能性の話だ」
「僕以外に恋だって⁉︎ 容姿端麗で家柄も申し分なく文武両道のこの僕が幼い頃からずっとそばにいるのに⁉︎」
「自信があるのはいいことだな」
「彼女と会話らしい会話をする男はこの学院にいなかった。僕だけだ」
アシュトンはマーカスの青い瞳をじっと見つめる。
「それは僕が、彼女にとって特別だったからじゃないのか……?」
マーカスはもう一度ため息をつく。
「特別なのは確かじゃないか? 直接確認してくればいい」
「直接確認して、特別じゃないことが分かったら、君は毎日僕の過去の思い出話と泣き言に付き合うことになるけどいいか?」
「構わないが、統一試験の後にしてほしい」
「薄情者め!」
ごほん、と咳払いが聞こえた。
アシュトンが顔をあげると、図書館の司書を務める教員が、険しい顔をして立っていた。
「図書館ではお静かにお願いいたします」
「……はい。すみません、先生」
一緒に怒られたマーカスが、「なんで俺まで」とブツブツ文句を言った。
*
「本日より、実習生としてお世話になります。セオドアです。よろしく」
魔法薬学のクラスには、昨日図書室で見かけた男が立っていた。
(教育実習生⁉︎ 仮にも教師を目指す身で女子の在校生と親しくするのは不適切行為じゃないか?)
アシュトンは、赤髪の男を力一杯睨んだ。
目が合うと、セオドアは愛想良く微笑み、小さく手を振ってくる。
(何?)
彼とは寮が違うので話す機会は少なかったが、寮の管理生の集まりで何度か挨拶したことはあった。その程度の顔見知りとしてはやけに馴れ馴れしい様子に疑問を抱きつつ、一応挨拶を返そうとして、気づく。
(はっ! この男、まさかエミリアに手を振ったのか⁉︎)
魔法薬学の時間は二人一組になって実験を行う。アシュトンの隣にはエミリアが座っていた。
エミリアも、机の上で控えめに手を振った。
アシュトンは頭を鈍器で殴られたように衝撃を受けた。
(なんだと……! そんな可愛い小動物みたいな手の振り方、僕もされたことないのに!)
嫉妬で拳を握り、手に持っていた乾燥した薬草がぐしゃりと音を立てた。
それに気づいたエミリアが、目の前にある白い陶器の皿をアシュトンの手の下に置く。
「アシュトン、粉々にするなら先にお皿を置かないと」
「あっ、ああ、そうだね。僕としたことが、実験が楽しみすぎて先走ってしまって」
アシュトンが下手くそな誤魔化しをすると、エミリアは楽しそうにふわりと笑った。
「アシュトンは本当に魔法薬学が好きだね」
アシュトンがエミリアの微笑みに見惚れている間に、実験をするために教室が騒がしくなる。
「僕たちも作業しなきゃ……!」
アシュトンは教科書を開いた。目の前にあるフラスコと試験管を手に取る。適切な順序で材料を魔法の鍋に入れて、二人で合わせて魔力を込める必要がある。
エミリアは魔力のコントロールが苦手でよく鍋を爆発させるのだが、そんな彼女を補助しながらなんとか実験を成功させるのは、入学してからずっとアシュトンの役割だった。
失敗が多い彼女をフォローして成功した瞬間、エミリアの表情が花が咲くように和らぐ瞬間は、アシュトンにとって大きな喜びの瞬間である。
「エミリア、準備はいい?」
「うん」
エミリアが頷く。いつも自信なさそうにしている彼女が、なぜか今日は表情の印象が違う。緊張は見せているが不安ではなく、楽しみにしているようにすら見えた。
アシュトンが魔力を込めると、いつも自由に踊っているようなエミリアの魔力が、今日はずっと落ち着いていた。
(どういうことだ……?)
「アシュトン、材料は?」
「えっ、ああ……!」
慌ててほかの材料を投げ入れる。そうして、実験が拍子抜けするほどあっさり上手く行ったとき、エミリアはパートナーのアシュトンではなく、黒板の前に立っているセオドアに視線を向けて、誇らし気に微笑んでいた。
彼女がぱっとアシュトンの顔を見た。
「これで今日は応用の実験もできるね! ……って、アシュトン! 魔力が強すぎるよ!」
エミリアの叫びでアシュトンは現実に戻ってきた。
全ての薬剤が蒸発して、真っ黒い鍋の底から、魔物の亡骸を煮詰めたような強烈な臭いが漂う。
「くっさ……!」
アシュトンが鼻をつまんで鍋から離れる。エミリアはそれを見てぱちぱちと瞬きしてから、幼い日に一緒に転んだときのように目を細めて笑った。
*
悪臭は風の魔法で外へ追いやり、無事に難易度の高い応用実験を終えることができた。
エミリアの魔力が安定しているのは、偶然ではない。その次の魔法薬学の授業でも、彼女は上手く実験を行った。
これまでアシュトンとエミリアのペアは基本的な実験までしか完了させることができなかったのに、すっかり優等生ペアになった。
実験が成功するたびに、エミリアがちらっとセオドアの顔を見る。アシュトンはその度に彼女の前に魔除けの雲でも出して視界を覆いたくなるが、今のところ未遂である。
「あんなヘラヘラした男のどこが……! 何が僕より優れているっていうんだ! 僕の笑顔も太陽のように輝かしいはずなのに……っ」
男子寮の談話室で、アシュトンのうめき声がカーペットに吸収された。
アルデンウッド魔法学院では、生徒は全員寮暮らしだ。
男女共通の入口と談話室を過ぎると、男子寮、女子寮に分かれる構造となっている。
春になって役目を終えた大きな暖炉を背にして、ソファとテーブルが並んでいる。ピリピリした雰囲気の同級生がいるせいで、下級生は自室にこもっている。この時期の談話室は普段よりずっと静かだ。
マーカスはレポート用の魔法歴史学の本を見ながら応えた。
「女子は年上が好きだよな」
「僕だって彼女より三ヶ月年上だが⁉︎」
「ああ、そのとおりだな」
「だろう? ……マーカス、人と話す時は本から目をあげるべきじゃないか?」
「学期末のレポートが終わってなくて」
「何本レポートを書くんだよ!」
「5本だよ。お前も似たようなものだろう」
「僕はもうほとんど終わってる。あとは魔法物理学の実験レポートだけだ。エミリアのことをいつでも手伝えるように、自分のレポートはすぐ終わらせるようにしているんだ」
マーカスは半分口を開けたまま、なんとも言えない顔をした。
「素晴らしい幼馴染だな」
「そうとも! それなのに、……なぜか今年は手伝って欲しいと言われないんだ」
学期末にはレポート提出が必要な授業がいくつか控えている。統一試験が終わってから全て取り組んでいては間に合わないため、年度はじめに共有されたテーマに対して、生徒たちは好きな時期に書き始める。
前の学期では、アシュトンはエミリアのレポートのネタを一緒に考えたり、資料を一緒に集めたり、考えをまとめるのを助けたりしていた。今年度は全然相談を受けず、「まだ書いてないの」と言われていたが、最近聞いてみたら「今年は一人で書いてるから大丈夫」に変わっていた。
「一人で書いているって本当だろうか」
「さぁ」
「あの実習生と一緒にやってるんじゃ……」
「実習生は日中は授業を手伝っているし、エミリア嬢と話す暇はないんじゃないか?」
「じゃあ夜に二人で会ってるってことか⁉︎」
アシュトンは思わず立ち上がって叫んだ。周りの男子生徒が訝しげにこちらをみていることに気づいて、慌ててソファに座り直す。マーカスが声を顰めた。
「それはないだろ。夜に寮を抜け出したら罰則だ」
「そうだけど、先生の許可があれば問題ないんだから……実習生も同じように許可を出して、エミリアをどこかに呼び出していたら? 『先生、ここが分からなくて……』ペンを持つ彼女の手と、二人の指先がふと静かな空き教室で触れ……たら、なにか始まっちゃうだろ……! だめだっ! 始まってたまるか!」
「アシュトン、俺は同級生のロマンスよりもロドルス三世に興味があるから、部屋に戻って勉強していいか?」
「はぁ? ロドルス三世の人生なんてもう結末が分かってるだろ! 僕の恋路が気にならないのか⁉︎」
「俺は安定志向だから、結末が分かっている話のほうが好ましいんだ」
アシュトンが「薄情者!」と叫ぶ前に、マーカスは自分の部屋に戻っていった。
二人は相部屋なので、話す場所が談話室から部屋に移動してアシュトンは独り言を続けることになった。
*
数日後、アシュトンは授業を終えて、男女共用の談話室のソファに座っていた。膝の上で手を組み、項垂れている。
エミリアは、相変わらずアシュトンに頼らない。
もちろん顔を合わせればこれまでどおりに挨拶や雑談をするし、授業のペアもずっと一緒に組んでいる。しかしこれまでよりもエミリアに必要とされていないという事実は、アシュトンにとっては存在意義が揺らぐような衝撃であった。
そして自分の代わりに、彼女が頻繁に実習生のセオドアに視線を向けることも、耐え難い。
「……もう僕はいらないのか?」
ぽつりと呟いた声に返ってくる答えはない。いつも会話に付き合ってくれるマーカスは、図書館に本を返しにいくと言って不在である。レポートを予定通り進めることができ晴れやかな顔をしていた。
それ以外の生徒は試験目前で全員顔色が悪く、険しい顔で教科書やノートと睨めっこしている者がほとんどだ。
アシュトンは全教科をいつでもエミリアに教えられるように完璧に理解しているが、それを披露する場がなく暇である。
「はぁー……」
ため息をついた瞬間に、テーブルの上にマグカップが置かれる。コツンと小さな音がするのに合わせて顔をあげると、目の前でベージュの癖毛が揺れた。
「エミリア!」
「ここって空いてる?」
「もちろんだよ!」
エミリアはアシュトンの向かいに座る。両手にマグカップを持っていて、もうひとつを自分側に置いた。
「これは?」
「ココアを作ってきたの」
「ありがとう」
エミリアは、絵を描くのが好きで、アクリル絵の具を魔法のように混ぜて自在に色を作る。それなのに、魔法薬学や、調理など、絵の具以外を”混ぜる”のは下手くそだ。適切な量が分からないらしく、紅茶には砂糖を入れすぎるし、ココアを作ると一人分よりずっと多くミルクを入れてしまう。
実家から寮に越したとき、彼女はお気に入りのココアを一人分作ろうとして、二人分どころか三人分以上を作ってしまい、困り果ててよくアシュトンを呼んだ。
それを彼女と一緒に飲むのはアシュトンにとっては癒しの時間だ。
最近暖かくなってココアの出番もなかったが、久しぶりの嬉しい出来事だ。
アシュトンがくすみピンクのマグカップを手にとって、両手で包み込むと、カカオの香りがふわりと鼻先に漂った。
ミルクがたっぷり入ったカップは、手のひらで包むとちょうどいい温度だ。
彼女が余ったココアを渡す先が変わっていないことにほっとして、アシュトンの身体は緊張を解いた。
「温かいね」
エミリアが柔らかく微笑む。彼女はどちらかといえば控えめで、アシュトンが話すのをこうして微笑んで聞いていることが多い。
大きな明るい茶色の瞳は、出会ったときから変わらない。
アシュトンは父親が厳しく、家庭教師に怒られた後で庭の隅で落ち込んで一人座り込んでいたところを彼女に見つかったときも、エミリアはアシュトンに何も聞かずにそばにいるだけだ。
涙が出そうになって下を向くと、彼女はアシュトンの手を握って、目を合わせずにそのまま隣に座っていた。
エミリアにじっと見つめられると、昔は彼女の気を引けていて嬉しいという気持ちになった。それがいつの間にか誇らしさと同時に照れ臭く、落ち着かないと感じるようになったのはいつからだろう。
彼女の指先に触れたら、アシュトンが感じるこの緊張感が、彼女にも伝播するだろうかと想像して、実行しないまま、何年も隣で過ごしている。
昔は、彼女がよく頬に絵の具をつけているのを見つけて拭ってあげたものだ。絵の具がついていることに気づかずに不思議そうに首を傾げる彼女は可愛かった。
(そういえば、もう何年も絵の具を頬につけているのを見てないな)
アシュトンはマグカップの縁を親指でなぞった。彼女も普段このカップを使っているのだろうかと思ってしまうことに少し後ろめたさを感じながら、マグカップに口をつける。
(しょっぱい……! えっ、塩? 塩が入っているのか?)
ココアは想像した味からかけ離れていて、甘味はなく、塩辛い。
(気のせいじゃないよな?)
もう一口飲んでみると、やはりどう味わってもしょっぱい。
エミリアも自身のカップに口をつけようとする。
「ちょっと待った!」
「え?」
「エミリア、えーと、僕は今とてつもなく喉が渇いているから二杯飲んでもいいかな」
「二杯……?」
エミリアはアシュトンの言葉を咀嚼するようにしばらく固まってから、自分のマグカップを見て眉を寄せた。
「苦かった?」
「いや、苦くは……」
エミリアが、アシュトンが止める間もなく自分のマグカップに口をつける。彼女の眉間の皺が濃くなる。
「なにこれ……!」
エミリアの小さな嘆きに反応するように、アシュトンはココアの上にさっと手をかざした。指先で円を描きながら、引き上げるように指を動かせば、カップの上に透明な水晶のようなものが出来上がる。それは花を描くように固まった。
アシュトンがその塩の結晶を手のひらに載せ、エミリアに差し出す。
「綺麗……」
「舐めてみて」
「……?」
エミリアはその花を受け取ると、舌先でつついた。一瞬だけ眉を寄せて、もう一度舐める。
「……しょっぱい? えっ、私、塩とお砂糖間違えたのかな?」
「多分ね。でも大丈夫。塩は結晶として取り出しやすいから、こうやって」
アシュトンはエミリアのカップの上でも同じことを行った。
それから指を鳴らすと、二人の周りに同じような透明な花が次々生まれて、弾けるように光って消えた。
「あとは砂糖だね」
共同のキッチンに向かって引き寄せの魔法を使い、砂糖の入った陶器の器を手元に呼ぶ。ココアに砂糖を入れて混ぜると、甘い香りが漂った。
「ほら、これでいつもの味だ」
一口飲んで自分の言葉を確かめて、アシュトンが微笑むと、エミリアは少しだけ眉を下げた。
「ありがとう。アシュトンはやっぱりすごいね」
落ち込むことがあっても、甘いココアを飲むと彼女は幸せそうに表情を緩めたものだが、今日は少しだけ悲しそうに見えた。
エミリアの滞在時間はアシュトンが望むよりもずっと短い時間だった。彼がココアを飲み干さないうちに、「お部屋でレポートを書いてくる」と言っていなくなってしまった。
アシュトンはその日寝るまで、エミリアの少しだけ元気がない顔をずっと頭に思い描いていた。
次の日の放課後、背の高い本棚の間にマーカスの黒髪頭を見つけて、アシュトンは一晩中考えても覆らなかったことを相談することにした。
「エミリアの元気がないんだ」
「そうか。なぁ、今俺がなにをしているか分かるか?」
「ロドルス三世に関する資料を読み込んでいるんだろう。その著者の立場は偏っているから正反対の立場も引用したほうがいい。これがいい」
魔法歴史学の本を一冊本棚から取り出して机におくと、マーカスが顔を上げた。
「魔法歴史学は無難にしないほうがいいと聞いたんだが」
「それは担当がスミス先生の場合で、ウィング先生の場合はバランスを取るほうがいいんだよ」
「管理生情報?」
「いいや、授業を聞いていれば分かる」
マーカスは疑い深く目を細めたが、やがて軽くため息をついて本を自分の手元に引き寄せた。
「それで? エミリア嬢がどうしたって?」
「元気がないんだ。甘いココアは彼女の好物で、一口飲むだけでいつも嬉しそうにするのに、おかしい! 僕がココアから塩の結晶を取り出して花の形に生成したことも、全然喜んでなかった」
「話の文脈が見えなくて何を言っているのかさっぱり分からない」
「だから、僕が魔法を見せたら、いつもなら『わぁ、すごい!』と言って喜んでくれるのに、棒読みで『アシュトンはすごいね』と言ったんだ」
「あー……それは……」
「エミリアは頻繁にお腹が痛くなるからその可能性を考えたけれど、お腹は押さえてなかった。それにお腹が痛いと顔色が白っぽくなるんだ」
「体調不良じゃないならよかったな」
「そうだね。……もしかして、元気がないんじゃなくて、セオドアのほうが素晴らしい魔法を使えるから、塩の結晶を取り出すなんて子供っぽいと思われたのかな⁉︎」
アシュトンがその可能性に気づいてはっと顔をあげる。マーカスは納得していなさそうだ。
「セオドア先生はそんなに高度な魔法が使える人には見えないけどな。在学中も、特別優等生ってほどでもなかったような……」
「じゃあ、なぜ」
「もしかしたら、魔法の腕を自慢していると思われたんじゃないか? 最近彼女自身も随分授業にやる気のようだし、自分で頑張ろうと思ったことをお前に横から手柄を奪われたような気分になったとか」
アシュトンは衝撃に目を見開くと、ふらふらと後退り、本棚に手をつく。
「そんな……僕はただ、エミリアに笑ってほしかっただけなのに。ココアに塩と砂糖を入れ間違えたことなんてなんでもないって伝えたかったんだ」
「えっ、塩と砂糖を? それは結構大事じゃないか。飲めなくなるし」
アシュトンはマーカスを睨んだ。マーカスは話を誤魔化すように咳払いした。
「……それがミスだって思えないほど彼女のことを想っているなら、こそこそ後を追ったり声をかけられるのを待ったりしないで、自分の気持ちを伝えたほうがいいんじゃないか」
「えっ」
「いつまでも幼馴染という立場に甘えて関係を進めないから、ぽっと出の男の存在で不安になるんだろ」
ピシャリと言い当てられて、アシュトンは黙った。言い返す言葉が見つからずに数秒が経過すると、マーカスがため息をつく。
「お前は入口の石像そっくりだよ」
「トルウィッチ初代校長の……? 魔法の才能が溢れすぎて?」
「そっちじゃなくて右側! ヨボヨボの爺さんと比較されて褒められたと思えるのは本当に才能だな」
「右……? あれはただの球体じゃないか。非の打ちどころがなさすぎて近づきがたいってこと?」
「違う。あれは裏側から見ると石像じゃなくて砕けたガラスでできてる。光をあてると反射して綺麗らしいんだが、俺は見たことがない」
「じゃあなんで知っているんだ?」
「エミリア嬢が教えてくれたから。一年生のときに成績が悪くて先生に呼び出されて、怖くて泣いて隠れていたときに見つけたらしい」
「は? 聞いてない! その先生の名前を教えてくれ」
「先生の名前は知らないよ。とにかく、エミリア嬢はその石像がお前に似てるって言ってたよ」
「なぜ君が僕の知らないエミリアの話を知っているんだ?」
「さっきから話の腰を折りすぎじゃないか? 俺も下級生の頃に成績が悪くて先生に呼び出されたからだ!」
マーカスは立ち上がると、アシュトンの背中を押した。
「とりあえず行ってこい。振られたら失恋旅行の手配だけしてやるから」
「学友の付き添いで傷心旅行なんて笑えない」
「いや、俺は長旅は嫌いだから手配だけする。行くなら一人で行ってほしい」
「薄情者!」
アシュトンが叫ぶと、図書館の司書を務める教員がやってきて、二人を睨んだ。先生に怒られて外に連れて行かれるアシュトンを見て、マーカスが呟く。
「はぁ、これでやっと静かにレポートが書ける」
*
アシュトンはエミリアを探して学院の中を走り回っていた。
(いない! 一体どこにいるんだ⁉︎)
思いつくところは全て確認し、最後にマーカスに教えてもらった入口の石像を見に行ったが、そこにも彼女の姿はなかった。
エミリアのことなら、なんでも分かっていると思っていた。
食べ物の好き嫌いも、好みの紅茶の温度も知っているし、元気な時とそうじゃない時もすぐに見分けられる。
物心がつく前に出会って、お互いの母親が仲が良かったために幼い頃は頻繁に一緒に過ごしていた。アシュトンの母が亡くなってからも、アシュトンは何かと理由をつけてエミリアの家に遊びに行くようにしていた。
成長するにつれて遊びに行く理由を探すのは難しくなってきて、手紙のやりとりが増えてしまった。だから学校で彼女のそばにいられるようになって、毎日が特別な時間だった。
(あとは……教員の研究棟!)
アシュトンは中庭に飛び出して、生徒はあまり立ち入らない高い塔を目指した。
青い屋根の石造りの塔には古い木製の扉がついている。その扉が、ちょうど閉まろうとしていた。
「開け!」
呪文を唱えて扉が閉まらないように固定する。塔の上の方に続く螺旋階段の中を覗き込めば、そこにはエミリアが目を丸くして立っていた。
彼女の茶色い瞳は、メガネに覆われていない。少しだけ目元が赤くなっていることが分かった。
「エミ……」
「アシュトン?」
低い男性の声がして、不思議そうに首を傾げているセオドアと目があった。
「な……っ、エミリア、こっち」
大股で階段を登って、彼女の手首を掴む。エミリアの顔は見ないようにしたまま、アシュトンは下を向いて歩き出した。
「ア、アシュトン……? どこに行くの?」
「メガネは? つけなくていいの?」
「えっ、あ……」
小さな金属音がする。エミリアは歩きながらメガネをつけようとしているようだが、上手くできない様子だ。アシュトンはしばらく歩いて校舎の裏側に来ると、彼女のメガネを手にとって、つるを広げて渡した。
「気持ち悪くなってない?」
アシュトンが尋ねると、エミリアはこくりと頷く。
「さっきはなぜセオドア先生と一緒にいたんだ?」
「え? ええと、授業で分からないところがあって……」
「そんなの僕に聞けばいいじゃないか!」
思わず叫ぶと、エミリアはびくりと震えて目を丸くした。
「ああ、ごめん、怒鳴るつもりじゃなかったんだ」
いつもなら滑らかに言葉を紡ぐ口が、今は石化の魔法にかかったように動かない。
(なんて言えばいいか分からない)
幼い日のアシュトンなら、溢れ出す感情と言葉のバランスが崩れると泣いてしまっていただろうが、十八歳の今は涙として感情を外に出すこともできなくて、アシュトンは棒立ちのままエミリアを見つめた。
彼女は何も変わらないように見える。
茶色い大きな瞳も、ベージュの髪も、じっとアシュトンを見つめるその表情も。
エミリアが一歩アシュトンに近づいて、彼の手を握った。
「どうしたの? 大丈夫? 何かあったの?」
幼い頃よりエミリアの手はずっと大きくなったけれど、アシュトンも成長したから二人の手の大きさには差がついてしまった。
彼女の身長に合わせて小さくて、子どものように温かい手がアシュトンの手を包み込む。
アシュトンの母が亡くなってしばらくして、庭で呆然と立っていたアシュトンを慰めてくれたときと変わらない。
「大丈夫じゃない」
「えっ、そうなの? どうしたの?」
「君のせいだよ。君が僕を頼ってくれないから……!」
アシュトンの青い瞳に涙が滲んで、一粒こぼれ落ちそうになったが慌てて上を向いた。
溢れる前にシャツの袖で乱暴に拭う。
エミリアは状況をよく分かっていない顔をしている。アシュトンが何か話をした時、よく分からないという顔をしている彼女をとても愛しく想っていたけれど、こればかりは分かってもらわなくては困る。
「君が好きなんだ。他の誰のところにも行かないでほしい」
怖くて口に出せなかった言葉は、想像していたよりずっと簡単に、するりと口を出た。
エミリアのことはなんでもよく知っていると思っていたのに、こんな時に彼女がどう反応するのか、アシュトンには全く想像できない。
背中が汗で冷たくなって、心臓がうるさく脈を打つ。
エミリアはぱちぱち瞬きしていたが、「えっ」と短く呟いて、手を離そうとした。
アシュトンはそれを許さなかった。
エミリアの頬が紅色の絵の具で染めたように真っ赤に変わっていったから、この手を離してはいけないと本能がそう告げたのだ。
*
二人は、人気のない庭先の花壇の縁に並んで腰掛けていた。
エミリアが居心地悪そうに手を離そうとするが、アシュトンは意地でも手を握ったままだ。
「ア、アシュトン……手……誰かに見られたら恥ずかしいよ」
エミリアの小さな声が、今の状況が夢ではないと教えてくれる。幼い頃は手を繋いで歩くこともあり、そばにいても彼女はアシュトンのことを意識するようなそぶりを見せなかったが、今の彼女は恥ずかしがっているのだ。
しかも、嫌がってない。
それが何を意味するか、アシュトンには明白だ。
先ほど、真っ赤になったエミリアは、聞き間違えでなければ「どこにも行ってない」と呟いた。アシュトンは、その話をしっかり聞かなければならない。
アシュトンは、習ったばかりの魔法を使って、周りの人から二人の姿が見えないように細工した。
「この魔法を使えば、誰にも見られないよ、エミリア」
名前を呼ぶと、エミリアはうさぎみたいに跳ねた。顔を赤くして、気まずそうにしている様子は、聞かなくても彼女が恥ずかしがっているのだと分かる。
不安で萎みかけていたアシュトンの自尊心は、彼女の反応で完全に戻ってきた。
「僕は君が好きだ。君も同じ気持ちでいてくれる?」
エミリアはゆっくり頷いた。アシュトンの胸の中には祝福を告げるような盛大な鐘の音が鳴った。
「よかった! 君が僕を避けていたのは恥ずかしがっていただけなのか! はぁ、本当によかった!」
「え?」
エミリアが首を傾げた。
「私、アシュトンのことを避けてなんかないけど……」
「そうなのか?」
エミリアは本当に自覚がないようで、不思議そうな顔をしている。両想いと分かった今、彼女に頼ってもらえなくなった期間も気持ちを盛り上げるためのスパイスとして良い仕事をしたな、と思えるようになっていた。
(恥ずかしくて無意識に避けていたのかな。エミリアは可愛いな)
「最近、勉強で困ると僕じゃなくてセオドア先生に頼っているように見えたからさ……」
エミリアは、目を丸くした。
「そこには自覚があるんだね?」
「えっ、ええと……」
「魔法薬学の実技も急に上手くなっていたし! まさか夜な夜な二人で研究塔で勉強を……⁉︎」
「違うよ! 夏休みは見てもらってたけど、セオドアが実習生になってからは全然……」
「名前で呼ぶ仲だと⁉︎」
エミリアははっとして口を閉じた。
アシュトンの顔から血の気が引き、怒りなのか失望なのか、ぐちゃぐちゃの感情で頭が回らなくなる。
エミリアはアシュトンを見ておろおろと視線を泳がせたあと、彼の手を握った。
「アシュトンは、いつもテストで1番でしょ? 卒業する前に、大好きな魔法薬学の実技も1番になってほしくて、秘密の練習をしてたの」
「え……?」
「私がパートナーじゃなければ、本当はすぐ1番になれるはずでしょ? でも、最後まで一緒に実験をしたかったの」
エミリアの変化は、どうやら自分のためらしい。そこまではアシュトンも理解できたが、セオドアに頼むところは納得できない。
「それなら僕と一緒に練習すればいいじゃないか!」
「うーん、それは……」
「なぜ僕じゃだめなんだ!」
「えっと……」
エミリアはアシュトンを見て気まずそうに黙っていたが、ゆっくり口を開いた。
「アシュトンは、すごく頭が良くて」
「そうだろう」
「魔力のコントロールもうまくて、一回教えてもらったことも、教えてもらってないこともスラスラ分かって、なんでもできるでしょう? それは、私には真似できないの。セオドア先生は、私と一緒で魔法がちょっと苦手なんだって。お父様に魔法のことを相談したら、セオドア先生を紹介してくれたの」
「……教えるのがもっと上手くなったら、僕に頼ってくれるってことだね」
ようするに、教えるのが下手。エミリアが言いたいのはそういうことだろう。
「教授法くらいマスターしてみせる」
エミリアはアシュトンの決意に目を丸くして、困ったように笑った。
「呆れてる?」
「ううん、アシュトンらしくて……貴方のそういうところが好き」
エミリアの口角がわずかに上がり、彼女の小さな手が、アシュトンの手をぎゅっと握る。
アシュトンの心臓は止まる寸前のように大きく跳ねた。頬が燃えるように熱くなって、彼女の「好き」という言葉が頭の中をいっぱいにする。
「僕も君が大好きだ。僕は一番を取るのが大好きだが、家のために無理しているわけじゃないよ。なんでもできる自分が好きだし、なにより君が褒めてくれると嬉しいんだ」
幼い頃は、父の厳しい教育方針が影響し、全てが完璧でなければ存在価値がないと思っていた。アシュトンの母は、なにかがうまくできなくても、アシュトン自身の価値は何も変わらないし、「愛している」と言ってくれたけれど、母が亡くなってからはアシュトンにそれを教えてくれる人はいなくなった。
そして母の声も、もらった言葉も、だんだん思い出せなくなって、うまく呼吸ができない日が続いていたとき、エミリアの絵がアシュトンのことを救ってくれた。
彼女は、アシュトンの母の魔法をイメージした絵をプレゼントして、母の声を思い出させてくれたのだ。特殊な目をしている彼女にしかかけない、不思議な色合いの絵は、間違いなく母の声をアシュトンに届けてくれた。
なにかで一番を取れたとき、アシュトンが一番最初に伝えに行くのはずっと母だった。その日から、エミリアの絵になった。
そのうち彼女自身に伝えるようになって、母に話すのとは違う、自分だけを見てほしいという気持ちがどんどん強くなるようになった。
彼女に頼られるのは好きだ。困っていたら必ず力になりたいし、必要とされると安心する。
必要じゃなくても、そばにいてほしいと願うのは、少し怖い。
「だから、エミリア、これからもずっと僕を見ていてほしい。どんなときも」
声が震えないようにするのがやっとで、アシュトンの声は少し小さかった。それでもエミリアははっきりと頷いてくれた。
*
エミリアが夜間に教員用の研究棟に行った理由は、後日明らかになった。
「エミリア、メガネは⁉︎」
ある日突然、いつも彼女の目を守っている丸いレンズがなくなっていた。
「メガネがなくても大丈夫になる魔法を試してるの。まだちょっとしか外せないけど……」
エミリアによると、教授の一人がエミリアと似たような目を持っていて、自分自身のために開発している実験的な魔法を試させてくれているらしい。
そのために時々夜に教員用の研究棟を訪れるのだ。
(メガネがないとエミリアの可愛い顔を誰でもしっかり見れるようになっちゃうじゃないか!)
アシュトンは、きょろきょろと周りを見渡して、エミリアの方向に目線を向けている疑わしい生徒のことを漏れなく睨んでおいた。
「誰か探しているの?」
「誰も探してないよ! 僕は君しか視界に入らない」
アシュトンは大真面目に回答したのに、エミリアは冗談と受け取ったようでくすくす笑っている。
彼女が口元に手をあてると、唇がつやつや光っていた。アシュトンはハンカチを取り出して、そっと唇に押し当てた。
「なぁに?」
「えーと……」
アシュトンは、少し屈んで小さな声でつぶやいた。
「唇が光っていたんだ。朝からなにか描いてた?」
「え?」
エミリアは固まってから、むっと頬を膨らませた。
「溶き油じゃなくて、グロスをつけてるの……」
「グロス?」
「お化粧の練習!」
「化粧? エミリアが?」
「私だってお化粧くらいするよ」
「そ、そうなんだ……」
エミリアはいよいよ機嫌を損ねたようで、顔を逸らし、口元を乱暴にぬぐった。
「プロムの日までに、練習するもん。……アシュトンに『可愛い』って言ってほしいから」
「え?」
エミリアが、アシュトンの横を通り過ぎる。
彼女の白い頬は、春の花のように桃色を帯びている。
プロムとは、卒業前のダンスパーティーのことだ。まだパートナーを誘う時期ではないので、アシュトンはエミリアに声をかけていなかった。
ハンカチで拭うときに感じた唇の柔らかな弾力が、指先に蘇ってきたような気がする。
アシュトンは慌てて彼女を追いかけた。「毎日世界一可愛いよ!」と大声で叫ぶ声が、魔法学校の中庭に響いた。




