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婚約者の、病弱なきょうだい様【日間異世界恋愛ランクイン感謝】

作者: 相野端摘
掲載日:2026/07/21

 ミルクピッチャーを傾けると、白い筋が琥珀色の紅茶にすうっと落ちて、小さな渦を描きました。


 昼下がりのオープンテラスは穏やかな日差しに満ちていて、石畳の隙間に咲いた小花が風に揺れている。こんな天気のいい日にカフェで紅茶を飲むなんて、なんだか少しだけ贅沢をしているような気分になります。


 もっとも、注いだミルクの量を無意識に加減してしまうあたり、私の倹約癖は筋金入りですが。


「本当に素晴らしかったんだよ、セリーヌ!」


 目の前で、リカルド様がぱっと身を乗り出しました。完璧に整えられたプラチナブロンドの髪が陽の光をきらきらと弾いて、甘い香水の香りがふわりとテーブルの上を渡ってきます。


 この方はいつ見ても、まるで絵画から抜け出してきたみたい。


「あの舞台劇の主役の騎士がね、姫のために命を懸けて戦うシーンなんて、劇場の全員が息を呑んだんだ。君にも見せてあげたかったな」


 リカルド様は身振り手振りを交えて、それはそれは楽しそうに語る。アイスブルーの瞳が子犬のように潤んで輝いていて、こちらまでつられて微笑んでしまいそうになります。


「でも、君は最近忙しそうだし、ああいう華やかな場所はあまり得意じゃないだろう? 僕が代わりに楽しんできて、こうして君に教えてあげるのが一番だと思ったんだ」


 うん、確かに得意ではないです。それは合っています。


 ただ、忙しい理由の大半は、この外出着の裾がまた擦り切れたのを、夜なべして繕っていたからなのだけれど──まあ、それは言わなくていいことでしょう。

 私は僅かに間を置いてから、にっこりと笑いました。


「そうだったのですね。リカルド様がそのように楽しそうにお話しされるお姿を見られて、私もとても嬉しいです」


 嘘は言っていない。嬉しいのは本当のこと。彼が楽しそうにしていると、こちらも安心するから。

 膝の上で、スカートの裾をきゅっと一瞬だけ握りしめたのは、まあ、癖のようなもの。


「そう言ってくれると思ったよ! やっぱり君は僕の良き理解者だね」


 リカルド様は満足げに微笑んで、椅子の背にもたれかかった。


「僕の、きょうだいへの看病と社交ばかりの疲れる毎日に、君との時間は本当に数少ない安らぎなんだ」


「そう言えば、ごきょうだい様の具合は、いかがですか? 少しでも回復に向かわれているとよいのですが」


 私はミルクピッチャーをそっとトレイに戻しながら尋ねた。


 リカルド様には公爵家の離れで伏せっている病弱なきょうだいがいる。儚げで透き通るような肌、折れてしまいそうな体の細さと聞いているから、きっとリカルド様によく似た妹様なのだろう。


「いやあ、それがね、ちっとも良くならないんだ」


 リカルド様は大きくため息をつき、自分の額に手を当てた。その仕草がまた、ため息が出るほど絵になる。


「あいつは本当に繊細で、僕が少しでも部屋を離れるとすぐに心細くなって熱を出してしまう。だから僕がつきっきりで看病して、額のタオルを替えてあげたりしているんだよ」


「本当に頭が下がります。リカルド様は、何よりもきょうだい様のことを一番に想っていらっしゃるのですね」


「当然さ! 家族だからね」


 彼はぴんと胸を張った。その滑らかで傷ひとつない手が、自信たっぷりに宙を切る。


「僕がどれだけ自分の時間を犠牲にしても、あいつが少しでも楽になるならそれでいいんだ。周りの人たちも、僕の看病の姿勢をとても褒めてくれるんだよ」


 そう言いながら上着のポケットから取り出したのは、細工の凝った金の時計。チクタク、チクタク、と規則正しい音が、陽気なテラスの喧騒のなかで妙にはっきりと耳に届きました。

 時計の針を見た瞬間、リカルド様の眉がおおげさに下がりました。


「おっと、もうこんな時間か……。ごめんね、セリーヌ。僕はもう行かなくては。この後もきょうだいの看病があるんだ」


 彼がすっと立ち上がると、控えていた従者が馬車を呼びに行ったのか駆けていきました。


「あの子は僕がそばにいないと、すぐに心細くなって熱を出してしまうからね。僕だって、こんなに楽しい時間を切り上げて帰りたくなんてないけれど……きょうだいとして、どうしても放っておけないんだ」


 そしてごく自然に、


「じゃあ、そういうことだから。またね、セリーヌ」


 ひらひらと手を振って、甘い残り香だけを置き去りにして、リカルド様は足早にテラスの出口へ消えていきました。


 ……行ってしまった。


 テーブルの上には、彼が飲み干した空のカップと、私の分の紅茶。

 いつものことです。いつものこと。


 私は冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込みました。磁器はまだほんのりとぬるくて、ささくれた指先にちょうどいい温もりが染みてきます。テラスの向こうでは、通りを行き交う人々の笑い声や、馬車の車輪が石畳を叩く軽やかな音も聞こえます。


 アイルズワース家からの金銭的援助。

 それが、我がアシュベリー家の細々とした家計を繋ぎ止めている、たった一本の糸でした。


 リカルド様との婚約を大切に守って、アイルズワース家との繋がりを保つこと。それがお父様とお母様を安心させるための、私の大切な役目。私にできる、数少ないこと。

 だから私は、彼との縁を離せません。


 最後のひと口をゆっくりと飲み干す。冷めきった紅茶は少しだけ渋みが強くなっていたけれど、ミルクのおかげでまだ飲めました。


「あの方は、病気の妹君のために一生懸命尽くされている、とてもお優しい方。だから、私も精一杯お支えしなくては」


 小さな声で呟いて、背筋を伸ばす。

 穏やかな陽光の下、楽しげに行き交う人々の間をすり抜けながら、私は自宅へ帰りました。


     ◆ ◆ ◆


 午後の柔らかな陽光が、リカルド様のお宅の庭園を黄金色に染めていました。

 手に持ったバスケットが、歩くたびにわずかに揺れて、中に入れた焼き菓子の甘い香りがふわりと鼻をくすぐります。

 ややあって着いたのは、リカルド様がご両親と暮らす本邸ではなく、庭園に囲まれた別館でした。


 以前から、胸の奥に小さな、けれど無視できない違和感が(おり)のように溜まっていました。

 婚約者のリカルド様が、いつも「病弱なきょうだいの看病」を理由に、私との交流を断ったり、早々に切り上げてしまうこと。

 話に聞くに妹様と、私は一度もお会いしたことがないこと。


 けれど、私は自分に言い聞かせてきました。

 彼はとても優しくて、家族を大切にする人なのだ、と。

 それが、没落しかけた我がアシュベリー家を守るために、私にできる「役割」であったから。


 しかし今日、意を決してリカルド様のご両親に許しをもらい、リカルド様の言う「きょうだい」様に会いに行くことにしたのです。

 別館の戸を開けた従僕に促され、意を決してサロンの扉をそっと開けました。


「失礼いたします……。あの、お加減はいかがでしょうか。リカルド様から、妹様がとてもお辛い時期だと伺っておりましたので……」


 精一杯の丁寧さを込めてお辞儀をした私。

 けれど、視線の先にいたのは、私の想像していた「はかなげで可憐な少女」ではありませんでした。


 窓際の椅子に座っていたのは、透き通るような肌とプラチナブロンドの髪を持つ、驚くほど美しい「人」でした。けれど、その瞳――凍てついた湖のようなアイスブルーの眼差しは、少女のそれにしてはあまりに鋭く、射抜くような力強さに満ちていたのです。


「……そんなところに、病弱な妹なんていねえよ」


 低く、けれどどこか鈴の音のように響く、不思議な声。

 私は、思わず息を呑みました。


「え……っ?」


「俺は女じゃねえ、男だ。リカルドの『兄弟』、兄のレナードだ」


 目の前の「少女」が、当たり前のようにそう言い放ったのです。

 パニックになりそうな頭を必死に抑え、私は震える声で問いかけました。


「れ、レナード……様? ですが、リカルド様は、病弱な妹君の看病が……」


「あのクズが、よくもまあそんな嘘を……」


 レナード様は、ふんと鼻で笑いました。


「おい、お前。そんな顔をするな。あまりに驚きすぎて、今にも倒れそうだぞ」


「あ、だからサロンに……?」


「そうだ。男の寝室に、いきなり女を入れられるわけねえだろ。……まあ、あいつが『妹』なんて誤解させたから、こうしてサロンで対面できるんだがな」


 レナード様は、淡々と、けれどどこか苛立ちを孕んだ口調で続けました。

 リカルド様の「看病」は、すべて遊びのための免罪符に過ぎないこと。

 彼が、自分を「妹」という虚構の中に閉じ込めて、周囲の同情を買いながら、私のような人間を都合よく扱っていること。


「本来なら俺が兄として、あいつを殴るのが一番なんだろうがな。俺は生まれたときから体が弱くて、健康なリカルドのほうが跡継ぎに指名されている」


 その言葉の一つひとつが、私の脳裏で、バラバラだったパズルのピースを組み合わせていきました。


(ああ……そうだったんだ)


 今まで感じていた、あの言いようのない「ズレ」。

 優しさの裏側に潜んでいた、拭いきれない違和感。

 それらすべてが、目の前のレナード様が語る「真実」によって、鮮やかに、そして残酷なほど明快な形を結んでいくのです。


 私は呆然としたまま、けれど、不思議なほどに落ち着いた気持ちで、彼を見つめていました。

 悲しい、というよりは……。

 ずっと霧の中にいたような気分が、晴れていくような、そんな感覚。


「……なるほど……。そうだったのですね……」


「……なんだ、その顔は。そんなに納得したような顔をされると、こちらが悪いことをしているみたいじゃないか」


 レナード様が、少し困ったように眉をひそめました。

 その様子があまりに人間らしくて、私はふと、彼に持参したクッキーを差し出しました。


「いえ……。ただ、ずっと感じていた小さな違和感が、ようやく形になったというか……。パズルのピースが、ぴたっと嵌まったような、そんな気分なんです」


「……食ってもいいのか? 俺は、こんな時でも食欲がある、図太い男だぞ」


「はい。どうぞ、お遠慮なく」


 レナード様は、無造作にクッキーを一つ手に取り、口に放り込みました。

 サクッ、という小気味よい音が、静かなサロンに響きます。


「……悪くない。……いや、かなり美味いな」


 美味しそうに、けれどどこか豪快にクッキーを頬張るレナード様の姿。

 先ほどまでの、あの「美しき悲劇のヒロイン(に見えていた人)」の面影はどこにもありません。

 そこにいるのは、ただの、少し口の悪い、けれどとても正直な青年でした。


 そのギャップがあまりに大きくて。

 今まで抱えていた重苦しい空気が、ふっと軽くなったような気がして。


「……ふふっ」


「……なんだよ。笑ったのか?」


「すみません……。あまりに、意外な展開でしたから。……あんなに格好良くお話しされたのに、クッキーを食べる姿が、なんだかとても……」


「おい、なんだよ『なんだかとても』って! 食べ方が悪いのか!?」


「ふふっ、あはは! ……申し訳ありません。でも、なんだか、少しだけ……肩の力が抜けました」


 思わず、声が漏れました。

 私は、自分でも驚くほど明るい笑い声を、その場に響かせていました。


 窓から差し込む光は、変わらず温かくて。

 けれど、私の世界は、ほんの少しだけ、色を変えたような気がしたのです。


     ◆ ◆ ◆


 婚約者の兄弟に対するものとして適切な頻度で、という但し書きはつきますが。その出会い以降、私はときおりレナード様のいらっしゃる別館へ通うようになりました。


「……ったく、あいつの趣味は最悪だな」


 庭園のガセポのの中で、膝の上に置いた古い騎士物語のページを指で弾きながら、レナード様が呆れたように毒を吐きました。


「この本のどこに感動する要素がある? 騎士が愛のために国を捨てる? 効率が悪すぎるだろ。国を維持しつつ女も囲う算段を立てられないのか、この無能な主人公は」


「まあ、レナード様。それは情緒というものが足りませんよ」


 私は思わず、くすりと笑ってしまいました。


「騎士様は、地位よりも大切なものを見つけたというお話なのですから。愛の勝利、ですよ?」


「地位がなきゃ女一人守れねえよ。空想はいいが、現実はもっと泥臭いもんだ」


 そう言って不機嫌そうに鼻を鳴らすレナード様でしたが、差し出した林檎のタルトを一口食べると、ふっと目元を和らげました。

 

「……まあ、お前が持ってくる焼き菓子だけは、この退屈な本よりは数段マシだがな。今日のは、焼き加減が絶妙だな」


「お口に合って良かったです」


 彼に褒められると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じます。けれど、その温かさが広がるほどに、心の隅に追いやっておいた冷たい不安が、影のように這い出してくるのです。


 私はガゼボの椅子に腰を下ろしました。

 無意識のうちに自分の両手を膝の上で強く握りしめます。指先が驚くほど冷えていて、爪が食い込む痛みさえ遠く感じられました。


「……レナード様。私、最近、怖くなるんです」


「……あのクズか?」


 レナード様の声が、一瞬で鋭利なものへと変わりました。


「はい。リカルド様は今日も、『妹様の看病』という名目で街へ出かけられました。私は、彼がどこで何をしているかを知りながら、こうして笑ってお見送りしている。……私、このまま彼と結婚して、一生、誰かの『都合の良い盾』として生きていくのでしょうか」


「……それは、俺も思っていた」


「えっ……? それは、どういう……」


「俺はこの通り病弱だからな、健康なリカルドが跡継ぎになるのは仕方ないって思っていた。見返りのある結婚で真面目な嫁を迎え、馬鹿なあいつの代わりに家を守らせる。……貴族としては正しいが、それでいいのか?ってな」


「でも……それが貴族の役目ですし、私から婚約を解消したいと言うことはできないのです。アシュベリー家は、私の嫁入りを前提に、公爵家から多額の支援をいただいています。もし私から解消を申し出れば、家は立ち行かなくなりますし、領民たちを苦しめてしまう……」


 俯く私を見つめたまま、レナード様はふっと口を閉ざしました。

 冷たく翳りのあったその瞳に、静かですが確かな決意の炎が宿ったように見えました。何か大きな決断を下したのだと、引き結ばれた口元と、微かに震えた拳が物語っていました。


「……少し、時間が要るな」


 ぽつりとこぼしたその言葉に、私は不安を覚えました。


「時間……? でも、いずれはリカルド様と結婚するのは決まっていますが……」


「安心しろ。あいつはすぐには結婚なんてしねえよ」


 あまりに断定的な言葉に、私は戸惑いました。


「結婚してみろ、あいつには『家庭』という責任がのしかかる。社交界のうるさい連中も、『奥方を放っておいて夜遊びとは何事だ』と文句を言い始めるだろうな。だが『婚約中』ならどうだ? 『病弱なきょうだいの看病で忙しくて、なかなか結婚に踏み切れない健気な弟』を演じていれば、独身の気楽さと同情を両取りできる。独身の自由を最大限謳歌するために、あいつは必ず結婚を遅らせるはずだ」


 レナード様の言葉が、冷たい水のように私の胃の奥に落ちていきました。

 リカルド様にとって、私は愛する相手ではなく、自分の自由を守るための便利な「足止め」でしかなかった。その事実が、動悸となって喉元を圧迫します。


 呼吸が浅くなり、視界がわずかに滲みました。情けないと思いながらも、震えが止まりません。

 すると突然、温かくて大きな熱が、私の冷え切った手を包み込みました。


 驚いて視線を落とすと、レナード様が車椅子から身を乗り出し、私の両手をしっかりと握っていました。

 以前のような、透けるような細い指ではありません。少しずつ厚みを増し、生きようとする意志の拍動が伝わってくる、力強い「男の人」の手でした。


「握りしめすぎて、指が白くなってるぞ。お前は本当に、自分を粗末に扱うのが得意だな」


「レナード様……」


「いいか、セリーヌ。お前が泥をかぶる必要はない。……このまま、今まで通りにしていろ。あいつが油断して、お前を『絶対に逃げない都合の良い装置』だと思い込んでいるうちに、俺が全部ひっくり返してやる」


 ひっくり返す、という言葉の真意を問う余裕はありませんでした。

 ただ、彼の瞳の中に宿る、凍てついた湖を溶かすような熱い光に、私はあてられてしまったのです。


 レナード様は、私の目を真っ直ぐに見つめて言いました。


「俺を信じて、待っていろ。……お前をあんなクズの『足場』になんて、絶対にさせておかないからな」


 その手の熱が、私の凍りついた心をゆっくりと溶かしていくようでした。

 私は彼を信じたいと、心からそう思い、何度も深く頷きました。


 これが、レナード様との最後の会話でした。


     ◆ ◆ ◆


 あれから、二年の月日が流れました。


 古びた仕事机に向かい、私はランプの灯りの下で針を動かしていました。布地を指先でなぞれば、何度も仕立て直したせいで厚くなった縫い目が、ゴツゴツと無骨な感触を伝えてきます。

 二年前、離れの中庭でレナード様と笑い合っていた頃の私は、まだこのドレスに少しだけ「ゆとり」がありました。けれど十八歳になった今の私の身体には、布地が少しだけ窮屈で、裾を出すのもこれで三度目です。


「……季節が八回も巡ったというのに。私の指先は、相変わらず針仕事で固いままだわ」


 ふと手を止めると、首筋にズシリと重い疲労がのしかかっていることに気づきます。慢性的な睡眠不足と冷え性は私の影のようで、こうして集中している間だけ、その辛さを忘れられるのです。

 最後にリカルド様とお会いしたのは、半年前のこと。もはや顔を合わせず、従者が代弁する理由は、相変わらず『きょうだいの容態が芳しくなく、一歩も離れられない』と、二年前と寸分違わぬ言い訳が並んでいました。

 あの方の中では、時は止まったままなのでしょう。私がその言葉を信じて、ボロボロの家を支えながら、ただ黙って待ち続ける「便利な背景」のままだと疑っていないのです。


 私は、きゅっと糸を引き、最後の一針を刺し終えました。

 胸の奥で、カチリ、と小さな音がしたような気がしました。それは、今日まで私を縛り付けていた諦めという名の鎖が、音を立てて外れた瞬間でした。


「……さあ、行きましょう」


 私は立ち上がりました。膝の裏が強張って、一瞬だけ目眩がしましたが、私はそれを深く、浅い呼吸で整えました。今日が、このドレスをリメイクする最後の日になるのですから。



 アイルズワース邸の広間は、私の家の屋敷とは比べものにならないほど冷え冷えとしていました。

 重厚なソファに深く腰を下ろし、私は自分の膝の上で震える両手を、もう片方の手で静かに押さえました。指先のささくれが、手のひらのマメに触れて、チクリとした痛みを走らせます。


 隣に座る父と母の、落ち着かない呼吸の音が聞こえます。対面に座るアイルズワース公爵夫妻の視線は、鋭い針のように扉へ向けられていましたが、私はただ、壁にかかった大時計の「チクタク」という音に意識を集中させていました。かつては私の時間を削り取る冷酷な響きだったその音も、今夜は違います。それは、リカルド様が築き上げた虚構が終わりを迎えるための、確かなカウントダウンだったのです。


 不意に、外で軽快な馬車の音が響きました。

 続いて、弾むような足音。

 扉が勢いよく開き、華やかな薔薇の香水の匂いと共に、上機嫌なリカルド様が姿を現しました。


「あぁ、ただいま! ……って、あれ? お父様にお母様、こんな夜更けに揃ってどうしたんだい? それにセリーヌとアシュベリー伯爵まで……。あ、わかったぞ! 今度の夜会で僕が重要な役目を任されたから、みんなでお祝いのために集まって待っててくれたんだね? 本当に、君たちは優しいなぁ!」


 少年のように無邪気な、甘いソプラノ混じりの声。

 今の私には、彼の首筋から漂う酒の匂いと、安価なミントで隠しきれない高級クラブの煙草の残り香だけが、鮮明に感じ取れました。

 喉の奥が、砂を噛んだようにカラリと乾きます。


「……いいえ、リカルド様。今日皆様にお集まりいただいたのは、お祝いのためではありません。あなたのついてきた嘘を、すべて終わらせるためです」


 私は立ち上がりました。足の裏が、しっかりと床を掴んでいる感覚がありました。

 リカルド様が驚いたように目を丸くし、いつもの「被害者のような」潤んだ瞳で私を見つめてきます。


「え……? セリーヌ、何を言っているの? 嘘だなんて、僕が君に、どれだけ誠実に尽くしてきたか……」


「あなたは婚約してからずっと、『病弱なきょうだいの看病』を理由に私との約束を破り続けてきました。ご両親には『婚約者と交流している』と言い、私にはわざと『病弱な妹』だと誤解させるように告げて。存在しない妹の影に隠れて同情を買いながら、その実、あなたは一度も看病などせず、常日頃から遊び回っていたではありませんか」


 言葉を吐き出すたびに、胸の中に溜まっていた重たい澱が、一つずつ消えていくのを感じました。

 リカルド様の顔から、血の気が引いていきます。


「……半年です。あなたが完全に私の前から姿を消してからのこの半年間、あなたがどこで何をしていたか、お城の使用人たちも、あなたを運んだ御者の方々も、すべて私に教えてくださいましたわ。私が『哀れな、待ち続ける婚約者』として、あまりに惨めに見えたのでしょうね」


「そ、それは……! 違うんだ、あれはアイルズワース家の人脈を広げるための、外交という名の義務で……!」


「もう、結構です。本日、閣下と私の父の間で、正式な合意がなされました。……度重なる不誠実、そして虚偽による私の時間の不当な搾取。これらを理由に、私、セリーヌ・アシュベリーは、あなたとの婚約を本日限りで解消いたします」


「解消……!? 冗談じゃない!」


 リカルド様の顔が、一瞬で真っ赤に染まりました。天使のような少年の仮面が剥がれ落ち、醜い傲慢さが剥き出しになります。


「誰のおかげで、君の家が今まで食いつなげたと思っているんだ! 君みたいな地味で退屈な女、僕が婚約してあげてなきゃ、一生独身のまま、雑巾を絞って死んでいく運命だったんだぞ!」


 激しい怒声が鼓膜を打ち、心臓が跳ね上がりました。身体が恐怖で強張り、呼吸が浅くなります。

 けれど、私は唇を噛んで、逃げ出しそうな自分を繋ぎ止めました。


「ええ、そうですわ。私は地味で、退屈な女です。……ですが、あなたの『便利な盾』として使われる時間は、もう一秒たりとも残っておりません!」


「いい気になりやがって! 君はただ黙って、僕の都合のいいように頷いていればよかったんだ! 余計な出しゃばりをして、僕に恥をかかせるなんて……!」


 リカルド様が叫び、逆上して乱暴に右手を振り上げました。

 視界が白くなり、私は思わずギュッと目を閉じました。

 頬を打たれる衝撃に備え、全身の筋肉が硬直します。


「この、恩知らずな貧乏女が!」


 振り下ろされる風の音が耳を掠め、私は来るべき痛みに備えて全身の筋肉を硬直させました。

 呼吸が止まり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね回ります。


 ――しかし。

 いくら待っても、頬に衝撃が走ることはありませんでした。


「……っ!? な、なんだ、放せ! 誰だお前は!」


 頭上から降ってきたのは、情けないリカルド様の悲鳴でした。

 恐る恐る固く閉じていた目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、見知らぬ、ひどく逞しい男の人の広い背中でした。

 深いグリーンの上着が、その肩幅の広さと背中の厚みを際立たせています。私が知っているどんな貴族の青年よりも堂々としたその背中は、私を庇うように、リカルド様の右手を空中で、鉄のような強い力で掴み止めていました。


「……自分の無能を棚に上げて、女に手を上げるか。どこまで見苦しくなれば気が済むんだ、リカルド」


 低く、深く響く声。

 その声を聞いた瞬間、私の凍りついていた血液が、一気に全身を駆け巡るのを感じました。忘れるはずがありません。二年間、私の耳の奥にずっと残っていた、あの人の声です。


「あ、兄上……!? な、なんで……。お前は隣国の療養所で、そのまま野たれ死ぬはずじゃ……!」


 リカルド様が、震える声でその名を呼びました。

 レナード様は、無造作にリカルド様の手首を冷たく放り出すように突き飛ばしました。勢い余って、リカルド様は床に無様な音を立てて尻餅をつきます。


「悪いが、俺は地獄の底からでも這い上がってくると決めたんでね。……泥をすすり、血を吐きながらリハビリに励んだ隣国での二年間は、お前が酒に溺れていた時間より、よほど濃密だったぞ」


 ああ、本当にレナード様だ。

 かつて、私の縫い直した古いドレスが着られてしまうほど細く、折れそうだった華奢なシルエットはどこにもありません。病に蝕まれていた白磁の肌には精悍な生気が宿り、服の上からでもわかるしなやかで強靭な筋肉が、彼が一人の「男」として立ち上がったことを証明していました。


「そんな……、嘘だ! 父上! お母様! 何とか言ってよ! 兄上は病気で、僕が跡を継ぐはずだったじゃないか!」


 リカルド様は床に這いつくばるようにして、背後に座るご両親へと助けを求めました。今まで彼を無条件に甘やかし、全肯定してきた存在。彼にとっての絶対の盾です。

 しかし、重厚なソファから立ち上がったアイルズワース公爵の口から放たれたのは、氷のように冷たい言葉でした。


「ええい、見苦しいぞリカルド! 貴様のような放蕩息子、我がアイルズワース家の恥だ!」

「お、お父様……?」


 信じられないものを見るように目を丸くするリカルド様に、公爵は深い溜息とともに突き放すように言いました。


「レナードが治療のために家を空けていたこの二年間。もしお前が真面目に跡継ぎとしての学びを深め、婚約者であるセリーヌ嬢を大切にしていたなら、私はレナードが健康を取り戻したとしても、お前にこの家を継がせるつもりでいたのだ」


「えっ……?」


「だが、お前は何一つ変わらなかった。虚偽を重ねて遊び呆け、セリーヌ嬢の献身を無下にするばかり。……完全に見損なったぞ」


 それに続くように、今度は公爵夫人が扇子で口元を隠しながら、冷笑を浮かべて言い放ちました。


「あんなに目をかけてあげましたのに。病弱な兄を口実にして夜遊びに興じ、アイルズワースの体面を泥で汚すのもいい加減になさい。……過酷な治療を乗り越えて戻ってきた真の跡取りであるレナードの足を、これ以上引っ張るつもり?」


「お、お母様まで……僕のこと、一番可愛いって言ってくれたじゃないか……!」


「黙りなさい! ただの嘘つきで怠け者の息子など、もう顔も見たくありません。お前は明日、北の領地の果てにある農園へ行きなさい。せめてもの情けです、そこで下働きとして汗を流し、自分の食い扶持くらい自分で稼ぐことね」


 容赦のない両親の叱責と通告に、リカルド様は口をパクパクとさせて言葉を失いました。

 それは、貴族社会の冷酷な真実でした。家門の体面と利益を何よりも重んじる彼らにとって、健康で愛嬌があるからこそ価値があった次男など、自らの力で地位を証明した強靭な跡取りが復活し、己の自浄能力のなさを露呈した今となっては、ただの「無駄遣いのお荷物」でしかなかったのです。


 リカルド様のすがるような視線を、レナード様は一刀両断しました。


「両親への根回しと、正式な爵位継承の手続きは、すでに先ほどすべて終えてきた。……今日この時をもって、アイルズワース家の正当な後継者はこの俺、レナード・アイルズワースだ。お前に与える金も、部屋も、もうこの家にはない」


「あ……あぁ……! そんな、嫌だ、泥まみれで働くなんて……! 僕が……僕がずっと、無条件で一番愛されるはずだったのに……!」


 糸が切れた人形のように、リカルド様はその場にへたり込みました。誰かの善意や犠牲の上にしか成り立たない彼の虚構が、音を立てて崩れ去った瞬間でした。

 彼を見下ろす私の心に、不思議と憎しみはありませんでした。ただ、長かった重い役割からようやく解放されたという、深い安堵だけが広がっていきました。

 胸の奥でつかえていた息を、ゆっくりと吐き出します。肩の力が抜け、強張っていた足首の震えがゆっくりと収まっていくのがわかりました。


「……それから、最も重要なことを教えてやろう」


 レナード様が、冷たく言い放った後、ゆっくりとこちらを振り返りました。


「セリーヌ・アシュベリーの新たな婚約者は、この俺だ。お前のような寄生虫に、彼女をこれ以上一秒たりとも渡すつもりはない」


 私を見つめる、凍てついた湖のようなアイスブルーの瞳。けれど今は、その奥に驚くほど穏やかで、熱い光が灯っています。


「……待たせたな、セリーヌ。随分と、長く待たせてしまった」


「レナード……様。本当に、レナード様なのですか……?」


 私の声は、情けないほど震えていました。

 視界が急にぼやけて、瞬きをした途端、ポロポロと大粒の涙が頬を伝って落ちました。熱い涙が、冷え切っていた頬を伝う感触で、これが夢ではないのだとようやく実感できたのです。


「ああ。……もう、お前を『言い訳』になんてさせない。これからはお前が、俺の隣で一番に輝く番だ」


 そう言って、レナード様は私に向けて、大きく温かい手を差し出しました。

 私は涙で滲む視界のまま、彼の手を見つめました。そして、自分の荒れた両手で、彼の手をしっかりと握り返しました。

 触れた瞬間に伝わってきたのは、以前のようなひんやりとした大理石の感触ではありませんでした。痛いほどに脈打つ灼熱の体温。そして、彼の大きな手のひらには、私と同じように、泥臭い努力の末に作られたいくつもの硬いマメが刻み込まれていたのです。

 二人だけが知る、懸命に生きた証。それが重なり合ったことで、私の心はこれまでにないほどの強さで満たされていきました。


「待っていてくれて、ありがとう。……さあ、後は親に任せて移動するか。」


 微笑む彼の隣で、私は力強く頷きました。

 もう、誰にも都合よく使われることはありません。私は私の足で、彼と共に歩いていくのです。

 袖口で涙を拭い、私はしっかりとレナード様の手を握ったまま、確かな足取りで応接間を後にしました。二人で歩き出したその先には、誰にも奪われない、本当の人生が待っていると確信しながら。


 「病弱な女性を優先する男」系で、こういうのは読んだ覚えがないな、と思って投稿しました。


 この物語を必要としている方へ届けるために、皆さまの星をつけるリアクションや、SNSでのご紹介で力を貸していただけませんか。

 皆さまからいただく一つひとつの反応が、この作品がより遠くへ歩んでいくための道標になります。


 この物語の良き理解者として、作品の行く末を共に支えていただければ幸いです。

 このたびは、拙作を見つけてくださり、ありがとうございました。

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