第6話. 過去との衝突
二つ目の依頼。そこに記されていたのは、あまりにも残酷な「名前」でした。
5年前、検事だったユンジェが信念を懸けて守り抜いた男、イ・ソジュン。
組織はユンジェの過去、そして「良心」さえも利用しようとしています。
過去と現在が最悪の形で交差する第6話、ぜひご覧ください。
二度目の依頼に含まれた判例には、見覚えのある名前が含まれていた。
五年前、ユンジェが自ら起訴を断念したあの事件。
組織は、彼の過去までも把握していたのだろうか……。
【2019年3月22日 午後11時15分】
【下宿 206号室】
ユンジェは、二つ目の依頼ファイルを開いた。
[判例再構成 ― 事件リスト]
1. 2018年 特許侵害事件
2. 2017年 営業秘密流出事件
3. 2014年 産業スパイ事件
スクロールが止まると同時に、ユンジェの指も止まった。
『イ・ソジュン』
その名前。
忘れようとしても、決して忘れられなかった名前。
【2014年 11月】
【天安地検】
大企業A社の責任研究員、イ・ソジュン。
中国のB社に新技術の資料を渡した疑い。
提示されたすべての証拠は、あまりにも明白だった。
メール、USBのコピーログ、さらには通話履歴まで。
だが、ユンジェはその「完璧さ」に、むしろ不吉な予感を覚えた。
「これは……捏造の可能性がある」
現場で感じた違和感。
一般的な産業スパイ事件とは異なる、あまりにも出来すぎた証拠。
アリバイと相反する供述。
そして何より、イ・ソジュンの目。
恐怖と悔しさが入り混じった、嘘を知らない純粋な瞳だった。
ユンジェは、妙に彼を信じてみたくなったのだ。
【11月22日】
「イ・ソジュンは不起訴処分にします」
報告を受けた部長検事の顔が、怒りで強張った。
「証拠は捏造されたものと思われます」
「ハン検事、証拠が『多すぎるから』疑わしいと? そんな理屈が通ると思っているのか!」
「完璧すぎます。痕跡が『過剰に』残りすぎているんです」
部長検事は低い声で圧力をかけた。
「上からも関心を持たれている事件だ。A社の会長が直々に……」
「だから何だと言うんですか?」
ユンジェは食い下がった。
部長検事が机を叩き、怒鳴りつけた。
「起! 起! し! ろ!」
「部長、証拠が捏造されているんですよ?」
「お前が捏造だとなぜ断定できる! それは裁判所が判断することだ!」
ユンジェは静かに首を振った。
「……私にはできません」
「何だと?」
「無実の人間を起訴することはできません。申し訳ありません」
その一言で、ユンジェの検事としての人生は終わった。
【11月30日】
辞職願を提出。
いや、正確には辞職を『強要』されたのだ。
それでも後悔はなかった。
自分の信念を、そして一人の無実の人間を守り抜いたのだから。
しかし……。
【2019年3月22日 午後11時17分】
「なぜ……ここでこの名前が出てくるんだ?」
ユンジェは、掠れる瞳で画面を見つめた。
[事件再構成 要請事項]
既存判決:不起訴(担当:ハン・ユンジェ検事)
再構成の方向性:有罪論理の構築
目的:民事訴訟 二審準備
依頼者:非公開
「有罪論理……?」
ユンジェの呼吸が止まった。
五年前、自分が守り抜いた一人の男を。
今度は自分の手で、犯罪者に仕立て上げろというのか。
その瞬間、すべてを悟った。
(これは偶然じゃない)
この組織は知っているのだ。
ユンジェの過去を。その選択を。そして彼の『良心』という名の弱点を。
彼らは今、その良心を試している。
いや、かつての逆心を罰しているのだ。
【午後11時30分】
ノートパソコンの画面右下に、小さな通知が表示された。
[A-73様がファイルを5分以上閲覧されました]
[作業開始とみなされます]
[拒否不可]
「拒否、不可……」
背筋が凍りつくのを感じた。
ユンジェは再び、呪われたファイルを開いた。
読み進めるほどに、内側から激しい怒りが込み上げてくる。
[再構成の方向性]
イ・ソジュンのメール → 故意性を強調
USBログ → 計画性を立証
通話履歴 → 共謀関係を設定
「これは……俺が五年前に否定した論理そのものじゃないか」
捏造された証拠。こじつけの論理。真実の塗りつぶし。
今、そのすべてを『合法的』な形にパッケージングしろという要求だった。
「だめだ……」
だが現実は非情で、彼に拒否権など残されていなかった。
【拒否不可】
その四文字が、鉄の枷のように彼を縛り付けていた。
【午前0時00分】
再び鳴り響く、携帯の非通知設定。
「……はい」
「A-73様」
聞き覚えのある、あのシルエットの男の声だった。
「作業開始を確認しました」
「なぜ……よりによって、この事件なんだ」
短い沈黙の後、男が冷ややかに言った。
「A-73様。あなたが今、最も大切にしているものは何ですか?」
「……どういう意味だ」
「良心ですか? それとも、お父様ですか?」
ユンジェは喉が詰まり、言葉を継げなかった。
「五年前は良心を選びましたね」
「……」
「今回は、何を選択されますか?」
ツッ、ツッ――。
無慈悲に電話は切れた。
今の彼には、反論する『自由』さえ許されていなかった。
【午前1時10分】
ユンジェは深く深呼吸をして、再びキーボードに向かった。
タイトル:産業スパイ事件の再解釈
――イ・ソジュン事件を中心に
序論:二〇一四年に不起訴処分となったイ・ソジュン事件は……。
ユンジェはタイピングする指を止めた。
「……申し訳ありません、イ・ソジュンさん」
五年前、自分が救おうとした人。
今、自分が殺そうとしている人。
【午前2시 30分】
廊下から足音が近づいてきた。
そして、ドアの前で止まった。
「スッ」と、一枚のメモが滑り込んできた。
ユンジェは中を見る勇気がないまま、しばらくその紙切れを見つめていた。
『イ・ソジュンは二〇一五年一月三日、自宅で投身自殺しました。
彼の死後も、A社は訴訟を止めませんでした。
遺族を相手に民事訴訟二審を続け、最後まで責任を問おうとしたのです。
あなたが守った人間は、結局、一年後に自ら命を絶ちました。
原因はA社による執拗な訴訟と、社会的な抹殺でした。
A-73様。今回は、きっちりと終わらせてください』
ユンジェの指から、メモがこぼれ落ちた。
「……イ・ソジュンが、死んだ……?」
不起訴処分だけでは、彼を救うことはできなかったのだ。
俺は彼を守ったと過信していたが、実際には何もできていなかった。
そして組織は、その無力さを嘲笑っていた。
ユンジェはゆっくりと立ち上がった。
ノートパソコンのカーソルは、依然として冷徹な点滅を繰り返している。
彼はキーボードの上に、再び手を置いた。
そして、すべての感情を押し殺した。
より速く。より冷徹に。
今、彼は「作家 A-73」だ。
良心も、過去も、すべてを灰にしなければならない。
【次話予告】
ユンジェはイ・ソジュン事件を「有罪」として再構成する。
だが作業の途中、依頼ファイルの中から互いに繋がった不審な参照文書を発見する。
二〇一五年 ○○事件。
二〇一七年 △△事件.
二〇一九年 ◇◇事件.
そしてすべての文書に、共通のコードが隠されていた。
『AS-3870』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
かつて守ろうとした人の「死」、そしてその人物を再び追い詰める作業。
ユンジェの絶望と怒りが、冷たいタイピング音と共に響く回でした。
不気味な共通コード「AS-3870」。
果たしてその数字の裏に隠された、真の巨大な闇とは?
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