第20話. 同じ場所、異なる理由
「兄の記録が、本当に誰かを救ったのでしょうか?」
亡き兄の遺した封筒を抱え、ソヨンはついにハン・ユンジェと対峙します。
目の前に並べられた二つの記録。
兄の生々しい真実と、ユンジェによって「洗浄」された流麗な文章。
同じ場所で、異なる理由を抱えて向き合う二人の間に、冷徹な沈黙が流れます。
「確認」という名の救い、あるいは絶望。
物語の大きな転換点となる第20話、始まります。
イ・ソヨンはカフェの窓際の席に座っていた。
手に持った封筒は、思いのほか軽かった。
兄が遺したもの。
数枚のメモと、プリントアウトされた文書。
三年の歳月の重みだと言うには、あまりにも頼りないものだった。
窓の外を人々が通り過ぎていく。
誰かは笑い、誰かは電話をし、誰かはただ歩いていた。
平穏な午後だった。
(兄さんも、こんな日に消えてしまったのだろうか)
ソヨンは封筒を見つめた。
ふと、兄の声が聞こえた気がした。
「ソヨン、お前はいつも確かめたがるよな」
そうだった。幼い頃からそうだった。
宿題の見直しも、試験の回答も、兄が作ってくれた料理でさえも。
いつも二度、確かめた。
兄はそのたびに笑って言ったものだ。
「ああ、確かめろ。それがお前を守ってくれる」
ソヨンはゆっくりと息を吸い込んだ。
今は、確かめる時間だった。
カフェの扉が開き、一人の男が入ってきた。
ソヨンは一目で分かった。
その人物が、ハン・ユンジェであることを。
ユンジェはカフェの中を見渡した。
そして、窓際に座っている女と目が合った。
イ・ソヨン。電話で聞いた声の主。
彼女は立ち上がらなかった。ただ、彼をじっと見つめていた。
ユンジェはゆっくりと、そちらへ歩み寄った。
向かい合って座る。
「こんにちは」
ソヨンが先に挨拶をした。
彼女の声は落ち着いていた。しかし、その手は封筒を強く握りしめていた。
「……こんにちは」
ユンジェも答えた。
二人の間に静寂が流れた。
カフェの中の人々は日常の会話を楽しみ、コーヒーマシンは騒がしい音を立てながらスチームを吹き出していた。
その活気ある騒音が、自分たちのテーブルの境界に触れた瞬間、冷たく凍りついて床へと転落していくような気分だった。
ソヨンが口を開いた。「なぜ、来たのですか?」
ユンジェはしばし躊躇した。「……確かめるために、来ました」
「何をですか?」
「俺が知るイ・ソジュン氏と、あなたが記憶しているイ・ソジュン氏が、同一人物なのかを」
ソヨンの瞳が揺れた。
「同じ人間でしょうか?」
「……分かりません。俺はイ・ソジュン検事に直接お会いしたことはありませんから」
「なら、どうやって兄の記録を書くことができたのですか?」
質問は氷のように冷たかったが、そこには非難も怒りもなかった。ただ、純粋な疑問だけが残っていた。
ソヨンは封筒を開け、数枚の紙を取り出してユンジェの前に置いた。
「これが、兄が遺したものです」
ユンジェは紙を見つめた。見覚えのある文章構造。見覚えのある論理展開。
「そして、これが検事様が書いたものです」
もう一枚の紙が置かれた。
ユンジェは、自分が綴った一文を見下ろした。
イ・ソジュンが書いた「致命的な欠陥」という言葉は、ユンジェの手を経て「潜在的な改善の必要性」という流麗な修飾語に洗浄されていた。
それは文章の修正ではなく、真実に対する去勢だった。
「似ていますよね?」ソヨンが尋ねた。
「……ええ」
「なぜ、似ているのでしょうか?」
ユンジェは答えられなかった。
『論文工場』から受け取った資料。イ・ソジュンという名を知らされずに渡された文章の断片。自分でも気づかぬうちに馴染んでしまった、そのパターン。
「説明しなくても大丈夫です」
ソヨンが言った。「どのみち、私にもすべてを理解することはできないでしょうから」
彼女は別の紙を取り出した。手書きだった。
兄の最後のメモ帳から破り取ったもののようだった。
「これは、兄が亡くなる一週間前に書いたものです」
ユンジェはその文字を追った。
『俺の書いたものが、誰かを救うこともあるかもしれない』
短い一文。しかし、あまりにも重かった。
「兄は信じていたのだと思います」
ソヨンの声が少し震えた。「自分が書いた記録が、誰かの役に立つのだと」
ユンジェは顔を上げられなかった。
「でも、それが本当にそうだったのか、私は確かめたかったのです」
ソヨンがユンジェを見つめた。
「兄の記録は、本当に誰かを救いましたか?」
ユンジェはゆっくりと顔を上げ、彼女の瞳を見つめた。その目には悲しみがあった。しかし、恨みはなかった。
「……分かりません。俺が書いたものが、誰かを救ったのか殺したのか、実は自分でもよく分からないのです」
「なら、なぜ書いたのですか?」
「選択できる状況だったなら……」
ユンジェは言葉を止めた。何を言おうとしたのか。
選択できたなら書かなかったと? それとも、違う書き方をしたと?
「選択できたなら?」
ソヨンが問い返した。ユンジェは答えられなかった。
ソヨンが紙を再び封筒に入れた。
「私、実は検事様を恨みに来たわけではないんです。ただ……兄が何をしようとしていたのか、知りたかっただけなんです」
彼女が続けた。
「そして、それが無駄でなかったと信じたいのです」
ソヨンは封筒をカバンに入れながら言った。
「検事様は?」
「……俺ですか?」
「なぜ、ここに来たのかと聞いているのです」
ユンジェはしばし考えた。確かめるために。謝罪をするために。あるいはただ、逃げることができなかったからか。
「俺も……確かめたかったのです。俺のしたことが、本当に自分の選択だったのかを」
ソヨンは彼を静かに見つめた。
「それで、確かめることはできましたか?」
ユンジェは答えられなかった。
ソヨンが席を立った。
「また連絡してもいいですか? まだ確かめるべきことが残っていますから」
彼女は小さく笑った。悲しい笑みだった。
「それに、検事様も同じようですから」
ユンジェは答えの代わりに、深く首を縦に振った。
ソヨンがカフェを出ていき、ユンジェは窓の外を眺めた。彼女が歩いていく後ろ姿が見えた。
封筒を持った手。揺るぎない足取り。
(イ・ソジュンさん)
ユンジェは心の中で呟いた。
(あなたの妹さんは、あなたに似ています。確かめずにはいられない人間。そして……諦めない人間だ)
ユンジェがテーブルの上に置いたスマートフォンに、A-12からのメッセージが表示された。
[3870-12 進行確認]
彼は画面を消さなかった。しかし、今回は返信しないことに決めた。
せめて、今日一日くらいは。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「真実に対する去勢」
自分の文章が誰かの人生を、そして亡きイ・ソジュンの遺志を歪めていたという現実に直면したユンジェ。
ソヨンの静かな、しかし鋭い問いかけが、彼の凍りついた心に亀裂を入れます。
初めてA-12の指示を無視したユンジェ。
彼が決意した「確認」の先には、一体何が待ち受けているのでしょうか。
物語はついに、組織との正面衝突へと動き出します。
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