第2話. 最初の任務:作家番号A-73
「72時間以内に100ページを完成させろ」
不可能とも思えるミッションが、ついに動き出します。
どん底の元検事ハン・ユンジェに届けられた謎のUSB。
そこに隠された「医療データ」が意味するものとは……?
息つく暇もない第2話、お楽しみください。
七十二時間。
その間に、百ページの論文を完成させなければならない。
そしてユンジェはまだ知らない。
これが、地獄の入り口に過ぎないことを。
【2019年3月20日 午前6時12分】
【下宿 1階 郵便受け】
ユンジェは、寝ぼけ眼で階段を下りた。
昨夜の電話が、果たして現実だったのか。それとも追い詰められた末の幻聴だったのか。
確かなことが何一つ持てないまま、郵便受けを開ける。
そこには、小さな茶封筒が一つ、静かに横たわっていた。
差出人不明。
住所の記載もなし。
ただ、一文だけが記されていた。――【A-73専用】
その文字を見た瞬間、心臓が跳ね、肩に鉛のような重圧がかかった。
「本当に、始まるんだな……」
震える手で封筒を掴み、部屋に戻って中身をぶちまけた。
USBメモリが一つ。
そして、九行のメモ。
– 作業名:昇進審査用論文
– 分野:医療・科学
– 分量:百ページ
– 期限:七十二時間
– 基本原稿提供
– 依頼者情報:非公開
– セキュリティ維持必須
– 作業開始時刻:〇七時〇〇分
ユンジェはメモから目を離せなかった。
『依頼者情報:非公開』
その簡潔な言葉が、なぜこれほどまでに不気味に響くのか。
【午前7時00分】
時計の針が重なると同時にUSBを差し込んだ。
画面には、ファイルが一つ。
[草案_昇進用_v3.docx]
ユンジェは息を呑み、ファイルを開いた。
一ページ目には、たった一行。
『依頼者情報は、セキュリティ規定により非公開です』
そして次のページから、
医学用語、複雑な統計、AIアルゴリズムの構造が、視界を埋め尽くすほどびっしりと続いていた。
ユンジェは低い声で呟いた。
「医療……? 自動化?」
専門外ではあったが、検事として数多くの調書を読み込んできた彼には一目で分かった。データ構造の至る所に『歪み』がある。
だが、彼は既に理解していた。
「俺の仕事は……これを『本物』に仕立て上げることだ」
【午前9時18分】
ユンジェは検事時代の習性を呼び起こし、草案を精査した。
統計の初歩的な誤り、論理の飛躍、あまりにも性急な結論。
「これを……七十二時間で?」
顔を覆った。
その瞬間、言いようのない嫌悪感がこみ上げる。
(もしこれが、実際に患者の治療に使われるようなデータだとしたら……)
その時、携帯が震えた。
【父】
「ユンジェ……今日、少しだけ病院に寄れるか?」
父の弱々しい声。
ユンジェの胸が、万力で締め付けられるように痛んだ。
「父さん、今日は……どうしても外せない仕事が入ってしまったんだ」
「そうか……。ならいいんだ。忙しいのは分かっているから、落ち着いたらおいで」
通話が切れ、ユンジェはゆっくりと頭を垂れた。
「……ごめん、父さん」
それから、逃げるようにキーボードを叩き始めた。
【午後2時00分】
数時間、憑りつかれたように文面を修正していたユンジェは、
ある一文に指を止めた。
『患者群三の平均AFP数値は――』
AFP。
肝細胞癌の腫瘍マーカー。
父のカルテで、血を吐く思いで何度も目にした用語だった。
「まさか……」
ユンジェは狂ったように原稿をスク롤... スクロールした。
患者の年齢層、病期、診断の目的。
そのすべての情報が、まるで特定の病院の実在する記録であるかのように具体的だった。
ユンジェの背中に、冷たい戦慄が走った。
(俺は……一体、何を書かされているんだ?)
しかし、メモにあるのは、
『依頼者情報:非公開』
その無機質な一行のみ。
「一体、誰が何のために……」
答えは返ってこない。
【午後7時22分】
ガチャリ。
廊下で誰かが立ち止まった気配。
ユンジェがドアに飛びついた瞬間、「スッ」という音と共に、ドアの下から紙切れが差し込まれた。
すぐさまドアを開けたが、廊下の蛍光灯がチカチカと鳴るだけで、人影は消えていた。
メモには、たった二行。
『A-73、進行状況を確認せよ』
『午前三時、中間点検を行う』
ユンジェは暗い廊下を凝視した。
監視されている。この壁一枚隔てた向こう側に、奴らがいる。
【午後11時58分】
進捗は、およそ四割。
眼球の奥が痛み、思考は鉛のように重い。
その時、ノートパソコンの隅が点滅した。
【匿名ユーザー:遠隔接続リクエスト】
「……何だ?」
拒否する間もなく、画面が勝手に切り替わった。
ビデオ通話が強制的に接続される。
そこには、逆光でシルエットだけになった男の姿があった。
「作家 A-73様」
「……誰だ、お前は」
男は、一切の表情を隠したまま言った。
「正式な点検の前に、事前確認を行います。本番は予定通り午前三時。今はあなたの『誠実さ』を確認する段階だと思ってください」
「勝手にPCに侵入するなんて……」
「その端末は、もはやあなただけの物ではありません。セキュリティパッチを適用しました。我々の安全を守るための処置です」
『安全』
その言葉が、これほどまでに暴力的に響くとは。
ユンジェは震える手で、修正中のファイルを開いた。
男の無機質な声が、狭い部屋を満たす。
「よろしい。ですがA-73様」
「このペースでは、間に合いませんよ。銘記してください。締め切りを破れば、報酬の支払いは不可能。……分かっていますね?」
ユンジェは、言葉を失った。
男が最後に言い残した。
「依頼者の要求水準は極めて高い。失望させないでください」
通信が切れた。
ユンジェは、キーボードに手を置くことさえできなかった。
そこで、ようやく悟った。
(これは、単なる文章の編集じゃない)
監視、統制、そして『匿名』という名の巨大な意志。
自分はその巨大な歯車の中に、既に飲み込まれてしまったのだ。
【次話予告】
午前三時、約束の点検。
膨大なデータの中に紛れ込んだ、『致命的な嘘』。
A-73が手掛けているのは、単なる昇進論文ではなかった。
その数字は、誰かのキャリアのためではなく、
「3,870」という巨大な陰謀の、最初の一片だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに「A-73」としての歯車が回り始めました。
監視される中での執筆……ユンジェの緊張感が伝わっていれば幸いです。
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