第1話. 砂漠で拾った悪魔の囁き
本作は、韓国のWeb小説サイトで連載された『論文工場』の日本語翻訳版です。
元検事ハン・ユンジェの冷徹な知略と、巨大な悪への反격を描く本格サスペンス。
父は、死にかけていた。
手術費は、八千二百三十万ウォン。
その時、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
【2019年3月19日 23時47分】
【ソウル中央病院 8階 集中治療室 廊下】
ユンジェは廊下の隅にある自販機の前に立っていた。
コーヒーのボタンを押そうとして、指が止まる。
ポケットに残った小銭は、三千四百ウォン。
缶コーヒー一本、千二百ウォン。
「……水にしよう」
彼は七百ウォンのミネラルウォーターを選んだ。
冷たくも、温かくもない。喉を通る水の感触が、自分の現状のように味気なかった。
八階、集中治療室。
その厚い扉の向こうに、父が横たわっている。
【23時52分】
深夜、静寂을... ではなく、静寂を切り裂くように携帯が震えた。
表示されたのは、見覚えのないソウルの市外局番。
最初は無視した。
だが三分後、同じ番号が再び鳴り響く。
「はい。夜分にどちら様ですか」
「ハン・ユンジェ検事……で、間違いありませんか?」
耳元で響いたのは、剃刀のように冷徹な男の声だった。
「今は検事ではありません。辞職しました」
「存じております。一九八四年生まれ。ソウル大学法学部卒。司法修習四十二期。天安地検の元検事」
ユンジェは息を呑んだ。
「二〇一四年の産業スパイ事件で、上層部の圧力を拒絶。被疑者を嫌疑なしで処理し、そのまま辞表を叩きつけた。……違いますか?」
「……何者だ?」
「アカデミック・ソリューションズ(Academic Solutions)です」
聞いたこともない名前だった。
「何の用だ?」
「検事に提案があります」
「提案……?」
「ハン・ユンジェさんの父、ハン・ギチョル氏。七十三歳、肝臓癌末期。手術予定日は四月五日」
ユンジェの心臓が、跳ね上がった。
「どうしてそれを……!」
「総診療費、八千二百三十万ウォン。先納金の期限は三月二十七日。現在の通帳残高は、三十四万ウォン」
「一体……どうやって調べた……?」
「我々は、あなたに関するすべての情報を把握しています。これ以上の詮索は無用です」
廊下は無人のはずだった。だが、背後から誰かに見守られているような、薄気味悪い感覚が全身を包み込んだ。
「何の用で電話した」
「金が必要でしょう?」
「……」
「あなたは八千二百三十万ウォンを、あと八日以内に用意しなければならない」
ユンジェは自嘲気味に笑った。
「闇金か? 知っているだろうが、私は元検事だ」
「闇金? はは、心外ですね。学術コンサルティング会社……とでも言っておきましょうか」
「学術……?」
「簡単に言えば、論文作成代行サービスです」
「論文を……代わりに書くだと?」
「ええ。博士、修士、昇進用まで。専門のライターが依頼人の代わりに作成します」
ユンジェは通話を切ろうとしたが、その瞬間、指が動かなかった。
「それが私と何の関係がある」
「我々は、あなたのような『作家』を必要としています」
「私が?」
「検事出身で、論理的思考力は最高レベル。完璧な人材です。信じてください。最初の作業を完遂すれば、一千五百万ウォンを差し上げます」
「一千五百万……?」
「ええ。ただし制限時間があります。七十二時間以内に、百ページの論文を完成させてください」
頭の中で、冷徹な計算が始まった。
一千五百万ウォンあれば、父の手術の初期費用を賄える。
だが。
「……それは不法ではないのか?」
「いいえ。よくご存知のはずだ。グレーゾーン、と言っておきましょう」
「しかし……」
「一つ質問させてください。今、あなたにとって最も重要なものは何ですか?」
ユンジェは答えられなかった。
「法を守ることですか? それとも、父親を救うことですか?」
その言葉が胸に深く突き刺さり、思わず集中治療室のドアを見つめた。
横たわっている父。
七十三歳。四十年間タクシーを運転し、一度も『不法』など考えたこともない、実直な父。
そんな人が今、『金がない』という理由だけで死の淵に立たされている。
「依頼内容は?」
ユンジェが尋ねた。
「顧客は秘密。論文の用途は昇進審査です。テーマは『AIベースの医療診断』」
「医療論文? 専門外だ」
「ご心配なく。ベースとなる原稿は提供します。あなたはそれを『それらしく』整えるだけでいい」
「馬鹿な。そんなことが可能なのか?」
「あなたなら可能です」
男が断言した。
「検事時代、起訴状を数多く書いたでしょう?」
「……ああ」
「同じ概念だと考えなさい」
断固としたその一言。
ユンジェは溜息をつき、窓の外のソウルの灯りを見つめた。
消えることのない、過剰なまでの光。
あの光の下にいる人々の中で、一体どれほどの人間が潔白に生きているのだろうか。
「ハン・ユンジェさん」
男の声が再び響いた。
「今、決めてください。父を救うか、良心を守るか」
五年前は、良心を選んだ。
その結果、すべてを失ったが、後悔はしなかった。
少なくとも、その時までは。
「仕事の規模はどの程度だ?」
「難易度によって、一千万ウォンから三千万ウォンまで」
父の手術費、八千二百三十万ウォン。
再び単純な計算が、高速で頭の中を駆け巡る。
一千五百万ウォンの仕事を一つ、一千万ウォンの仕事をいくつか。およそ六編書き上げれば……。
「何編書けばいい?」
「それはあなたが決めることです。やりたい分だけやり、受け取ってください。最初の作業完了後、二十四時間以内に振り込みます」
耳障りのいい言葉だった。だが直感していた。
一度足を踏み入れたら、二度と戻れないことを。
【0時12分】
「どうやって連絡すればいい?」
「連絡は私からのみ可能です。明日、下宿の郵便受けにUSBを届けます」
「住所をどうやって……?」
「それが我々の仕事です。質問はこれ以上受け付けません」
沈黙が続き、男は最後の言葉を残した。
「歓迎します。あなたは今後……作家『A-73』と呼ばれることになります」
通話が切れ、ユンジェは携帯の画面を見つめた。
通話時間:十五分三十二秒。
再び、集中治療室のドアを見る。
その中で、父は死に一歩ずつ近づいている。
ユンジェは財布から二十年前の父の写真を取り出した。
笑っている父。ただの、ありふれた笑顔。
「父さん……」
写真をゆっくりと戻し、決意した。
【0時23分】
病院を後にしながら、ユンジェは思った。
最終電車。
疲れ果てた人々の中で、最も摩耗しているのは自分だった。
下宿のドアを開ける。三坪ほどの空間。カビの臭い。
机の上には、しばらく封印していたノートパソコン。
かつては『正의... ではなく、正義』のために使われた道具だった。
これからはこの場所で、『嘘』を綴ることになる。
ユンジェはベッドに横たわった。
天井を見つめ、心の中で呟いた。
「……始まりだ」
今日から。
いや、今この瞬間から。
俺は『作家 A-73』だ。
論文代筆作家。
眠りに落ちる前、最後の思考がよぎる。
(五年前は、良心を選んだ)
(今回は……生存だ)
(これが……正しいのだろうか?)
【次話予告】
真夜中の選択は終わった。
だが、本当の地獄はこれからだ。
七十二時間以内に百ページ。
そして、やがて直面することになる一つの数字。
「3,870」
初めまして、ソルビョルです。韓国で話題のサспеンス『論文工場』の連載を開始します。これからハン・ユンジェの壮絶な戦いが始まります。ぜひブックマークと評価をお願いします!




