第10話「青い日和の約束」
大正12年9月4日、朝。
焼け野原に、初めての柔らかな光が差し込んだ。
灰色の空が、ゆっくりと青く変わり始める。
瓦礫の隙間から、風が通り抜け、灰を優しく舞い上げる。
地獄門の残骸は、灰の山と化し、脈動はもうない。
胎児肉塊の臭いも、悲鳴の残響も、すべて消えていた。
青葉葵は、焼け跡の小さな空き地に座っていた。
着物は血と灰でぼろぼろになり、ほとんど原型を留めていない。
紅い線は、指先から薄く残るだけ。
傷口は、ゆっくりと塞がり始め、皮膚の透けも、わずかに残る血管の影だけ。
金色の瞳は、もう冷たく輝いていない。
柔らかな、いつもの青葉色の瞳に戻っていた。
彼女は、ゆっくり息を吐く。
「……終わったわね」
小さな声。
菫が、隣に座る。
母の体も、限界を超えていた。
古傷はすべて塞がり始め、血の流れは止まっている。
だが、顔は蒼白で、髪は灰にまみれ、着物は引き裂かれている。
それでも、菫は微笑む。
「ええ……本当に、終わった」
茂が、瓦礫の陰から歩み寄る。
手に、奇跡的に残った魔法瓶と、羊羹の包み。
最後の羊羹は、灰に少し汚れていたが、まだ形を保っている。
茂は、静かに座り、魔法瓶の蓋を開ける。
湯気が、立ち上る。
ほのかに、甘い香り。
みーちゃんが、葵の膝に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らす。
三毛の毛は灰まみれだが、温かかった。
葵は、みーちゃんの頭を優しく撫でる。
「あらあら〜、みーちゃんも、無事でよかったわね……えへへ」
いつもの、柔らかな笑顔。
菫が、葵の肩に頭を寄せる。
「菊乃おばあちゃんの分まで……私たち、生きてる」
葵は、頷く。
「ふふっ……ばあば、きっと見守ってくれてるわ」
茂が、羊羹を切り分ける。
小さな一片を、家族に手渡す。
「湯、冷めないうちに」
葵は、一口飲む。
温かい。
羊羹を、ゆっくり噛む。
甘い。
灰の匂いの中で、初めての、穏やかな甘さ。
彼女は、空を見上げる。
青い空。
焼け野原の瓦礫の隙間に、一輪の小さな青い花が咲いていた。
銘仙の着物の青と同じ、淡い色。
葵は、そっと手を伸ばし、花に触れる。
「……青い日和」
低く、呟く。
菫が、葵の手を握る。
「これからも、こんな日が続くように」
茂が、静かに頷く。
「家を、建て直そう」
みーちゃんが、鳴く。
家族四人+一匹。
焼け野原の真ん中で、寄り添う。
灰の雪は、もう降らない。
風が、優しく吹く。
葵は、ゆっくり立ち上がる。
傷だらけの体で、でも、笑顔で。
「あらあら〜、みんな。お腹すいたでしょう?」
弱々しいが、明るい声。
「えへへ……今日は、特別に大きな羊羹にしましょうか♪」
菫が、笑う。
茂が、魔法瓶を抱き直す。
みーちゃんが、葵の裾に絡む。
焼け野原の先に、かすかな人影が見え始める。
生き残った人々。
新たな始まり。
青葉葵は、家族と共に歩き出す。
背後で、青い花が、風に揺れる。
大正の空に、青い日和が広がる。
これからも、続く。
小さな、優しい日々が。




