第5話「北の玄武、家族の楔」
大正12年9月2日、夜。
黒い雨が、容赦なく降り注ぐ。
焼け野原の北、かつて上野の山裾にあった低地。
震災の崩壊で地盤が陥没し、地下鉄の残骸と瓦礫が混じり合った、暗い窪地が生まれていた。
そこに、北の玄武の楔が、半ば埋もれて立っている。
青葉葵は、家族と共にその窪地へ降りていく。
着物は血と雨で重く張り付き、腹・背中・首の傷口から血が雨に混じって流れ落ちる。
紅い線は、全身を覆い尽くし、皮膚は薄く透け、心臓の鼓動が血管越しに脈打つ。
金色の瞳は、冷たく輝いている。
無表情。
薄い、冷たい微笑み。
「……北の玄武。最後の楔」
低く呟く。
周囲の闇から、音。
ゴゴゴ……という、低い地響き。
地獄門の肉の裂け目が、すぐ近くまで迫っている。
触手が、無数に地面を這い、瓦礫を砕く。
仮面の使者が、群れを成して現れる。
胎児の泣き声が、雨音に混じり、精神を直接抉る。
葵は、楔の前に立つ。
家族が、背後に並ぶ。
菫が、血まみれの古傷を押さえながら。
菊乃が、老体を震わせ、血の指で九字を握る。
茂が、魔法瓶と最後の羊羹の包みを抱え、現場には出ない誓いを、初めて破りかける。
だが、葵は静かに首を振る。
「みんな……ここまで来てくれましたのね」
一瞬、柔らかな声。
だが、次の瞬間。
金色の瞳が燃える。
「共有視界……始めます」
低抑揚の宣告。
彼女は、両手を広げる。
浄界七曜陣。
光の輪郭が、窪地全体に広がる。
同時に、家族の視界が繋がる。
葵の目を通して、すべてが見える。
触手の動き、仮面の赤黒い瞳、胎児肉塊の蠢き。
三世代の血が、一つの赤い糸となって、明確に視える。
切れかけている。
菫の古傷が、視界の中で噴き出す。
菊乃の老体が、軋む。
茂の胸が、締め付けられる。
みーちゃんが、雨の中から這い寄り、葵の足元で震えながら鳴く。
触手が、一斉に襲いかかる。
葵は、動かない。
ただ、指を振る。
光針穿刺。
無数の光の針が、触手を貫く。
ジュウウ……焼ける音。
肉が溶け、黒い汁が雨に混じる。
だが、触手は尽きない。
一本が、葵の胸を狙う。
貫く。
ズブッ……肉を抉る音。
血が噴き出す。
視界が、赤く染まる。
家族全員の胸が、痛む。
共有視界の代償。
菫が、膝をつく。
菊乃が、血を吐く。
茂が、魔法瓶を落としそうになる。
葵の唇が、歪む。
冷たい微笑み。
「……まだ、終われない」
彼女は、楔に両手を押し当てる。
圧縮封魔・五芒星崩壊。
触手が、内側から爆ぜる。
肉片が飛び散り、雨に叩きつけられる。
内臓の臭いが、濃くなる。
さらに触手が、家族を狙う。
みーちゃんが、触手に絡まれ、悲鳴を上げる。
葵の金色瞳が、激しく輝く。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
紅い湯気が、爆発的に広がる。
触手が、沸騰する。
グツグツ……煮立つ肉の音。
胎児肉塊が、破裂する。
破片が、雨に散らばる。
七曜の陣が、玄武の楔を包む。
石碑が、ゆっくり正位置に戻る。
北の封印、修復完了。
四神の楔、すべて固定。
だが、地獄門の咆哮が、最大になる。
肉の裂け目が、大きく開き、無数の触手と口が、家族を飲み込もうとする。
葵の体が、崩れ落ちる。
紅い糸が、切れかける。
家族の視界が、暗くなる。
次の瞬間。
戦闘の冷たさが、消える。
5秒以内。
「あらあら〜……みんな、無事でよかったわ……」
弱々しい笑顔。
血まみれの体で、微笑む。
「ふふっ……えへへ、ちょっと……みんなの顔が見えて、嬉しいですわ」
菫が、葵を抱きしめる。
菊乃が、血の指で葵の頰を撫でる。
茂が、魔法瓶を拾い上げ、湯を注ぐ。
みーちゃんが、葵の膝に這い上がり、震えながら鳴く。
雨の中。
焼け野原の窪地で。
家族四人+一匹が、寄り添う。
灰と血と雨の匂いの中で。
わずかな、湯の温かさ。
羊羹の甘い香り。
だが、地平線の彼方。
地獄門が、完全に開く。
肉の門が、生き物のように脈動し、無数の悲鳴が、空を覆う。
葵は、ゆっくり立ち上がる。
傷を押さえ、血を滴らせながら。
金色の瞳が、再び冷たく輝く。
「これで、四神の楔は揃いましたわね」
低く、宣告。
「次は……門を、閉ざす番です」
家族の視線が、葵に集まる。
茂が、静かに頷く。
「行ってらっしゃい」
葵は、振り返って微笑む。
「あらあら〜、すぐ戻りますわ。ふふっ……お父さんの湯、冷めないうちに」
灰と雨の空の下。
家族の絆が、最後の光となる。




