第4話「南の朱雀、水没の幻視」
大正12年9月2日、未明。
灰の雪は止み、代わりに黒い雨が降り始めた。
焼け野原の南、かつて隅田川の支流が流れていた低地。
震災の衝撃で地盤が崩れ、川の水が逆流し、瓦礫の谷間に黒く淀んだ水没地帯が生まれていた。
水面は灰と血と油で虹色に濁り、ところどころに浮かぶ焼け焦げた人形や看板が、ゆらゆらと揺れる。
その水底に、南の朱雀の楔が沈んでいた。
青葉葵は、水辺に立つ。
着物は血と灰で重く、水を吸って裾が垂れ下がる。
腹と背中の傷口から、まだ血が滲み続け、紅い線は額まで這い上がり、こめかみの血管が脈打つ。
金色の瞳は、冷たく輝いている。
無表情。
薄い、冷たい微笑み。
「……南の朱雀。水没ね」
低く呟く。
水面が、波立つ。
黒い触手が、水底からゆっくり浮上する。
仮面の使者が、水面を破って這い出る。
赤黒い瞳が、無数に輝く。
胎児の泣き声が、水中で反響し、歪んだエコーとなって耳を抉る。
葵は、水に足を踏み入れる。
冷たい。
だが、痛みなどない。
彼女は、ゆっくり水底へ沈む。
水没の闇。
視界が、黒く染まる。
朱雀の楔は、水没した路地の奥、倒壊した橋の残骸に絡みついて沈んでいる。
周囲を、触手が網のように張り巡らせる。
葵は、楔の前に立つ。
水中で息を止め、両手を広げる。
浄界七曜陣。
光の輪郭が、水中を淡く照らす。
だが、即座に。
幻視が来る。
水が、血に変わる。
三世代の傷が、一斉に開く。
菊乃の古傷が裂け、菫の穢れ狩りの痕が噴き出し、葵自身の代償が肉を抉る。
赤い糸が、繋がる。
切れかける。
水中で、葵の口から血の泡が上がる。
「……まだ、切れない」
冷たい微笑み。
彼女は、楔に手を触れる。
九字護身法。
光が、水中を爆発的に広がる。
触手が、反応する。
一本が、葵の首を狙って巻きつく。
ギュッ……という、肉を締め上げる音。
息が、止まる。
彼女は、動かない。
左手で触手を掴み、引きちぎる。
ズルズル……肉が剥がれ、黒い汁が水に溶ける。
臭い。腐敗と血と、水の鉄臭が混じり、肺を焼く。
さらに触手が、足を絡め、引きずり込む。
水底へ。
暗闇の底。
そこで、胎児肉塊が蠢く。
無数の小さな手が、葵の体に触れる。
冷たい。
ぬるぬるした感触。
精神を侵食する悲鳴が、頭蓋に直接響く。
「来なさい」
低抑揚の宣告。
葵は、両手を合わせる。
沸魂業湯・紅蓮浄化。
紅い湯気が、水中で爆ぜる。
触手が、沸騰する。
グツグツ……煮立つ肉の音。
胎児肉塊が、膨張し、破裂する。
内臓のような破片が、水中に散らばる。
朱雀の楔が、光に包まれる。
ゆっくりと浮上し、正位置へ。
水没の封印、修復完了。
光が、水面を突き破る。
葵の体が、浮上する。
水面を破り、息を吸う。
血の泡が、口から溢れる。
金色の瞳が、揺らぐ。
次の瞬間。
戦闘の冷たさが、消える。
5秒以内。
「あらあら〜……水、冷たかったですわね」
弱々しい笑顔。
彼女は、水辺の瓦礫に這い上がり、座り込む。
着物から水が滴り、血が混じって黒い水溜まりを作る。
「ふふっ……えへへ、ちょっと、息が……」
遠くから、足音。
菊乃が、血まみれの指を握りしめ、近づいてくる。
菫が、支えながら。
茂が、焼け跡の「家」から、魔法瓶を抱えて走ってくる。
みーちゃんが、水辺まで這い寄り、弱く鳴く。
葵は、ゆっくり立ち上がる。
傷を押さえ、血を滴らせながら。
「次は、北の玄武……最後の楔ですわね」
灰と雨の空の下。
家族の視線が、葵に集まる。
地獄門の咆哮が、すぐ近くで響く。
肉の裂け目が、さらに広がり、触手が空を覆う。
だが、今は。
わずかな、青い日和の残り火。




