第2話「東の楔、灰の修復」
大正12年9月1日、昼前。
灰が雪のように降り積もる中、焼け野原は静かだった。
いや、静かすぎた。
炎の音は遠くに退き、代わりに地獄門の低いうめきが、空気を震わせている。
青葉葵は、東の方角へ向かっていた。
灰に埋もれた浅草の通りを、ゆっくりと。
銘仙の着物はところどころ焦げ、袖から紅い線が蜘蛛の巣のように広がり始めていた。
指先まで達し、爪の間から薄く血が滲む。
それでも、歩みは止まらない。
「東の青龍の楔……震災で、根元が緩んでいるはず」
独り言のように、低く呟く。
金色の瞳は、すでに冷たく輝いている。
無表情。
薄い、冷たい微笑み。
背後から、足音。
菫が追いついてきた。
母の着物も血と灰に汚れ、古傷が再び開き、滴る血が灰を黒く染めていく。
「葵、一人で行かせないわ」
「母さん……あらあら〜、お体が」
葵の声が、一瞬柔らかくなる。
だが、次の瞬間。
視界の端に、動き。
灰の山から、仮面の使者が這い出てきた。
赤黒い瞳。
黒い触手が、無数に伸びる。
仮面の下から、胎児のような泣き声が漏れる。
葵の瞳が、金色に燃える。
「来るなら、来なさい」
低抑揚の宣告。
彼女は右手を掲げる。
九字護身法。
光が走り、淡い七曜の輪郭が浮かぶ。
触手が一斉に襲いかかる。
葵は動かない。
ただ、指を軽く振る。
光針穿刺。
無数の光の針が、触手を貫く。
肉が焼ける音。
ジュッ……ジュウウ……
黒い汁が噴き出し、灰に落ちて煙を上げる。
仮面が割れ、中から胎児肉塊が零れ落ちる。
蠢く。
這う。
悲鳴が、精神を抉る。
菫が、横から加勢。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
母の手から、紅い湯気が噴き出す。
触手が溶け、肉塊が沸騰する。
グツグツ……という、煮立つ内臓の音。
臭いが、腐敗と鉄の混じった、吐き気を催すもの。
葵は、無表情のまま進む。
触手の残骸を踏み越え、灰を蹴る。
「母さん、後ろをお願いしますわ」
「ええ……行きなさい」
菫の声が、わずかに震える。
前方。
倒壊したビルの残骸。
その地下、かつての路地だった場所に、青龍の楔が立っていた。
石碑のようなもの。
だが、震災の衝撃で、半分傾き、根元から亀裂が入っている。
周囲を、触手が取り囲む。
地獄門から伸びた、無数の黒い腕。
葵は、楔の前に立つ。
金色の瞳が、深く輝く。
「修復……始めます」
彼女は、両手を広げる。
浄界七曜陣。
地面に、光の七曜が描かれる。
だが、代償が来る。
紅い線が、腕から肩へ、胸へ、首へ這い上がる。
皮膚が透け、血管が浮き出る。
血が、滴り落ちる。
幻視。
三世代の傷。
菊乃の古傷、菫の穢れ狩りの痕、葵自身のこれまでの代償。
すべてが、一つの赤い糸となって繋がる。
切れかける。
葵の唇が、わずかに歪む。
冷たい微笑み。
「……まだ、切れないわ」
低く、宣告。
光の陣が、楔を包む。
傾いた石碑が、ゆっくりと正位置に戻る。
触手が、激しく暴れる。
一本が、葵の腹を狙う。
貫く。
ズブッ……という、肉を裂く音。
血が噴き出す。
葵は、動かない。
ただ、左手で触手を掴む。
圧縮封魔・五芒星崩壊。
触手が、内側から爆ぜる。
肉片が飛び散り、骨のような破片が灰に混じる。
内臓の臭いが、濃くなる。
彼女は、傷口を押さえながら、陣を完成させる。
七曜の光が、爆発的に広がる。
触手群が、一斉に炭化。
灰になる。
楔が、完全に固定される。
東の封印、修復完了。
葵の体が、よろめく。
金色の瞳が、揺らぐ。
次の瞬間。
戦闘の冷たさが、消える。
5秒以内。
「あらあら〜……終わりましたわね」
弱々しい笑顔。
彼女は、瓦礫に腰を下ろす。
菫が、駆け寄る。
「葵!」
「ふふっ……大丈夫ですわ、母さん。ただ、少し……お腹が、痛いだけ」
着物の腹部、血が広がっている。
だが、葵は微笑む。
「えへへ……お父さんが、待っててくれますもの。湯、いただかないと」
遠く。
焼け跡の「家」の残骸。
茂が、魔法瓶を抱えて立っている。
菊乃が、血まみれの指で地面を撫でる。
みーちゃんが、灰の中から顔を出し、弱々しく鳴く。
葵は、ゆっくり立ち上がる。
傷を押さえながら。
「次は、西の白虎……行きましょうか」
灰の空の下で。
家族の視線が、葵に注がれる。
地獄門の咆哮が、再び大きくなる。
だが、今は。
わずかな、青い日和。




