第1話「灰の中の再会」
大正12年9月1日、未明。
大地が吠えた。
浅草の夜空を、赤黒い亀裂が引き裂いた瞬間、すべてが変わった。
家屋は紙のように折り畳まれ、瓦斯灯は爆ぜ、蓄音機の残響は悲鳴に飲み込まれた。
炎は追いつく間もなく広がり、灰は空を覆った。
そして、地獄門は完全に顕現した。
肉の裂け目が、銀座と浅草の境目を縦に抉り、無数の口が開閉し、胎児のような肉塊が蠢き、黒い触手が這い回る。
腐臭と絶え間ない悲鳴が、焼けつく空気に混じり、精神を侵食する。
それでも。
青葉葵は、立っていた。
倒壊した路地の瓦礫の上で。
銘仙の着物は灰と血にまみれ、裾は引き裂かれ、袖口から紅い線が指先まで這い上がっていた。
金色の瞳は、冷たく輝いている。
無表情。
薄い、冷たい微笑み。
「……まだ、終わっていないわね」
低く、抑揚のない声。
触手が一本、彼女の足元を狙って伸びる。
葵は動かない。
ただ、右手を軽く掲げた。
九字護身法。
指先が空を切り、淡い光が走る。
触手が、途中で爆ぜた。
肉片が飛び散り、黒い汁が地面を焼く。
音は、湿った肉が裂ける、鈍い響き。
彼女は、瞬時に視線を移す。
東の方角。
青龍の楔が、震災の衝撃でわずかに傾いている。
「……修復、必要ね」
その瞬間。
背後から、弱々しい声。
「葵……!」
菫だった。
母は、瓦礫の山を這い上がり、血まみれの着物を引きずっている。
全身に開いた古傷から血が滲み、顔は蒼白。
だが、瞳は燃えていた。
「母さん……!」
葵の金色瞳が、一瞬揺らぐ。
次の瞬間、戦闘の冷たさが消え、
「あらあら〜、母さん、無事でよかったわ……えへへ」
柔らかな笑顔。
5秒以内。
彼女はよろめきながらも、菫の元へ駆け寄り、肩を貸す。
「ふふっ……お母さん、ひどいお顔ですわよ。ちゃんと洗わないと」
菫は苦笑し、葵の頰に触れる。
「あなたこそ……紅い線が、指先まで」
「大丈夫ですわ。まだ、歩けますもの」
二人が支え合うようにして進む先。
焼け跡の小さな空き地。
そこに、菊乃が座っていた。
祖母は、老体を折り曲げ、九字を地面に刻んでいる。
血で。
「おばあちゃん……!」
葵が駆け寄る。
菊乃はゆっくり顔を上げ、皺だらけの笑みを浮かべる。
「……遅かったのう、葵。もう、北の玄武の楔は半壊じゃ」
声は弱いが、目は鋭い。
「残り三割……ここからじゃのう」
その時。
遠くから、別の声。
「葵! 菫! お義母さん!」
茂だった。
父は、焼け残った家の残骸から這い出してきた。
手に、奇跡的に無傷の小さな包み。
最後の羊羹。
そして、魔法瓶の湯。
「みんな……無事でよかった」
茂の声が震える。
現場には出ないと誓ったはずなのに。
だが、今は瓦礫の「家」の前で、家族を待つだけ。
それが、彼の戦い。
葵は、父の元へ歩み寄る。
灰にまみれた顔で、いつもの笑顔。
「えへへ……お父さん、ありがとうございますわ。湯、いただきますね」
茂は頷き、魔法瓶の蓋を開ける。
湯気が、灰の匂いの中で立ち上る。
ほのかに、甘い羊羹の香り。
家族四人。
焼け野原の真ん中で、瓦礫に腰を下ろす。
地獄門の悲鳴が、遠くで響く。
触手が、時折空を裂く。
だが、今はこの瞬間だけ。
葵は小さく息を吐き、湯を一口。
「……温かい」
菫が、葵の肩を抱く。
菊乃が、静かに目を閉じる。
茂が、羊羹を切り分ける。
灰色の空の下で。
わずかな、青い日和。
しかし。
地平線の彼方。
肉の裂け目が、さらに広がる。
新たな触手が、無数に生え、這い始める。
葵の金色瞳が、再び輝き出す。
冷たい微笑み。
「……さて」
彼女は立ち上がる。
着物の裾を払い、灰を落とす。
「この門を、閉ざすまで」
低く、宣告。
家族の視線が、葵に集まる。
菫が頷く。
菊乃が、血まみれの指で九字を握る。
茂が、静かに魔法瓶を置く。
「行ってらっしゃい」
葵は、振り返って微笑む。
「あらあら〜、すぐ戻りますわね。ふふっ」
そして、灰の中へ歩き出す。
背後で、地獄門の咆哮が大きくなる。




