第10話「関東大震災」
大正12年9月1日未明。
青葉堂の二階居間では、家族が静かに座っていた。
茂さんが湯を沸かし、羊羹を温め直す。
みーちゃんは窓辺で耳を伏せ、低く唸る。
外の地鳴りは、骨の悲鳴のような響きを帯び、
**ギシギシ……ドクドク……**と家全体を震わせていた。
葵は畳に指を這わせ、
「……四神の楔は、闇を抑えていますわ。
でも、大地そのものが……怒っている」
菫が頷き、
「自然の力は、血の代償では抑えきれないのかもしれない」
菊乃は古い呪符を握りしめ、
「……来るわね。
今朝が、最後の朝になる」
茂さんは、ただ黙って家族を見つめる。
言葉はないが、目には決意が宿る。
午前11時58分。
大地が、咆哮した。
相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の地震。
東京の下町では震度6(一部推定7相当)の激震が数十秒続き、
木造家屋が軋み、瓦が飛び散り、電柱が折れ、道路が裂けた。
浅草の凌雲閣(十二階)は8階から上が崩落。
銀座の煉瓦街も次々と倒壊。
ガス管が破裂し、囲炉裏や瓦斯灯から無数の火の手が上がる。
強風(前日の台風余波)が吹き荒れ、火は瞬く間に広がった。
火災旋風が本所・深川を襲い、数万の避難民を飲み込む。
隅田川の橋は人で溢れ、落ちる者、踏み潰される者、焼かれる者。
永代橋は焼け落ち、吾妻橋は炎に包まれる。
銀座の華やかな建物——丸善、カフェー、劇場——が黒い煙に変わる。
浅草六区は火の粉が降り注ぎ、劇場街が崩れ落ちる。
余震が何度も街を襲い、瓦礫の下で声が、次第に途絶えていった。
死者・行方不明者は約10万5千人。
焼失家屋16万棟以上。
東京市だけで6万5千人以上が命を落とした。
ほとんどが、火災によるものだった。
本所区の旧陸軍被服廠跡では、約4万人の避難民が集まっていた。
広い空き地は安全と思われたが、四方から炎が迫り、
火の粉が家財に燃え移る。
午後4時頃、火災旋風が襲来。
炎の竜巻が人々を引き寄せ、焼き尽くす。
ゴオオオ……
肉が溶け、骨が砕け、悲鳴が渦に飲み込まれる。
約3万8千人が一瞬で灰に変わった。
青葉家の和菓子屋は浅草の外れにあり、倒壊は免れた。
だが窓ガラスは全て割れ、屋根瓦が落ち、店先の羊羹は粉々に砕けた。
家族は庭に飛び出し、互いを抱きしめ、揺れが収まるのを待った。
葵の指先の紅い線が、激しく脈打つ。
しかし、異界の使者は現れなかった。
四神の楔は、東京の闇を抑え込んでいた。
これは、ただの「大地」の怒りだった。
揺れが収まった後。
空は煙で覆われ、遠くで火の手が燃え続ける。
灰が雪のように降り始める。
家族は瓦礫の中を歩き始めた。
助けを求める声を聞き、負傷者を支え、火を避けながら。
だが——。
突然、地響きが再び響いた。
今度は、自然ではない。
大地の底から、粘つく肉の脈動が這い上がる。
空気が重くなり、息が詰まる。
灰の粒子一つ一つが赤黒く染まり始める。
隅田川近くの焼け野原で、地面が陥没した。
そこから——。
地獄門 が、完全に顕現した。
巨大な肉の裂け目。
縁は赤黒く脈打つ血管が膨張・収縮を繰り返し、
表面に無数の口が開閉し、歯のない歯茎のような肉がむき出し。
門の中心から黒い粘液が滴り落ち、地面に触れると**ジュゥ……グチュ……**と肉が溶ける音。
奥は無限の闇。
闇の中、無数の触手が這い出し、先端は剥がれた皮膚のように白く血走る。
胎児のような影が無数に浮遊し、互いに絡み合い融合、
一つの巨大な肉塊となって蠢く。
肉塊の表面に、目も鼻もない顔が無数に浮かび、
口だけが開き、**アアアア……アアアアア……**と永遠の苦痛の悲鳴を上げる。
門から噴き出す息は熱く腐臭を帯び、
周囲の灰を飲み込み黒い渦を巻く。
焼け焦げた瓦礫が触手に絡め取られ、一瞬で肉のように溶け、門に吸収される。
視界が歪み、頭の中に直接囁きが響く。
「血を……家族の血を……」
異界の使者たちが、次々と這い出てくる。
焼け野原を這う影は、四肢が異常に長く関節が逆、
頭部は溶けた蝋のように垂れ下がり、赤い瞳だけが輝く。
炎の中を進むものは、皮膚が剥がれ筋肉が脈打ちながら再生と崩壊を繰り返す。
東京は、もはや焼け野原ではない。
地獄の門が開き、世界の端が崩れ落ち始めた。
葵は、ゆっくり立ち上がる。
紅い線が全身に広がり、皮膚が透けて脈動が見える。
金色の瞳が、底知れぬ決意を宿す。
菫「……葵」
菊乃「……これで、終わりね」
茂「……俺は、ここで待つ」
葵は、薄く氷のような微笑みを浮かべる。
声は、低く抑揚なく。
「……終わらせましょう。
この門を——閉ざすまで」
灰と黒い靄が混じり合う中、地獄門の咆哮が空を裂く。
無数の胎児の悲鳴が重なり、増幅し、
焼け跡全体を絶望の音で満たす。




