第3話「浅草の夜店と黒い靄の影」
大正12年8月30日。
夕暮れが浅草の街を優しく染めていた。
青葉家は、家族揃って夜店へ。
葵は銘仙の単衣に、薄い帯を締め、
小さな扇子を手に提げている。
菫と菊乃は落ち着いた着物姿、茂さんはいつものように羽織を着て。
みーちゃんは今日はお留守番——家で丸くなって待っている。
浅草の仲見世から六区へ続く通りは、提灯の灯りで賑わっていた。
露店がずらりと並び、甘い匂いが漂う。
りんご飴の赤い光沢、金魚すくいの水音、
綿菓子の白い雲、焼きそばの鉄板のジュウジュウ音。
蓄音機から流れる軽やかな歌謡曲が、夜空に溶けていく。
葵は目を輝かせて、
「あらあら〜、なんて素敵な夜ですの♪
りんご飴、食べましょうか? えへへ」
茂さんが笑って、
「よし、みんな一つずつ買ってこい」
と財布を出す。
葵は赤いりんご飴を手に、
ぱくりと一口。
「ふふっ、甘酸っぱくておいしいですわ〜」
菫は金魚すくいの鉢を覗き込み、
「昔はよくやったわね……」
と懐かしげに微笑む。
菊乃は静かに周りを見回し、
「賑わいの中でも、気配は消えないわ」
と小さな声で呟く。
家族は夜店をゆっくり歩く。
子供たちが花火の棒を持って駆け回り、
モガさんたちがハイカラな洋装で笑い合う。
蓄音機の前に立つ青年が、レコードをかけ替える。
ジャズの調べが、夜の空気に混じる。
葵はみーちゃんの代わりに、
小さな金魚の袋を手に持って、
「この子、みーちゃんに似てるかしら? ふふっ」
そんな穏やかな夜だった。
だが——。
路地の奥、提灯の灯りが届かない暗がりで。
黒い靄が、ゆっくりと渦を巻いた。
最初は煙のように薄く、
だが、次第に人の形を成していく。
頭のない影。
肩から腕が長く伸び、指先が溶けたように垂れ下がる。
赤黒い瞳が、二つ——いや、三つ——瞬く。
葵の指先が、突然疼いた。
紅い線が、薄く光り始める。
彼女はそっと指を握りしめ、
「……あらあら〜、風が冷たくなったのかしら?」
と笑ってごまかす。
だが、金色の瞳が一瞬だけ輝いた。
家族は気づいていた。
菫が静かに葵の袖を引く。
「葵……感じる?」
葵は小さく頷き、
「はい……でも、まだ小さいですわ。
今は、みんなで楽しんで……」
茂さんが、家族を囲むように立つ。
「変な気配がするな……
早く帰ろうか」
菊乃が首を振り、
「まだ大丈夫。
でも、目を離さないで」
黒い靄の影は、路地の奥で揺らめき、
一瞬、家族の方を向いた。
赤黒い瞳が、無表情に光る。
そして——ゆっくりと、霧のように溶けて消えた。
夜店の賑わいは、まだ続いている。
蓄音機の音が、笑い声が、提灯の揺らめきが。
葵は、りんご飴をもう一口かじって、
「ふふっ……おいしいですわね。
帰ったら、みーちゃんに話してあげましょう」
帰り道。
浅草の外れの路地で、葵は立ち止まる。
指先の紅い線が、ほんのり熱い。
遠くで、地鳴りが——微かだが、確かに響いた。
葵は、家族を振り返って微笑む。
「あらあら〜、今日は楽しい夜でしたわね♪
明日から……東の青龍の楔、がんばりましょう」
菫と菊乃が頷く。
茂さんは、娘の頭を優しく撫でる。
「そうだな……みんな、無事で帰ってこいよ」
夜空に、提灯の灯りが揺れる。
だが、その下で、黒い靄の残り香が、
かすかに漂っていた。




