第1話「銘仙の朝と微かな脈動」
大正12年8月28日。
朝の陽射しが、浅草の路地を優しく照らしていた。
青葉家の和菓子屋「青葉堂」は、いつものように開店準備中。
店先の暖簾をくぐると、羊羹の甘い香りがふわりと広がる。
葵は銘仙の単衣を着て、髪をゆるく結い上げ、
小さなエプロンを腰に巻いていた。
指先の紅い線は、今はほんのり薄く、ほとんど目立たない。
「あらあら〜、今日は水ようかんがよく売れそうですわね♪」
葵は台所で、みーちゃんを抱き上げながら微笑む。
三毛猫のみーちゃんは、喉をゴロゴロ鳴らして、
葵の頰に頭をすりつける。
「えへへ、くすぐったいですわ〜」
茂さんが奥から出てきて、大きな盆に水ようかんを並べる。
「葵、今日は少し多めに作っておいたぞ。
近所のおばちゃんたちが、夏の疲れを癒しに来るってさ」
「お父様、ありがとうございます。
ふふっ、みんなで食べるともっとおいしいですものね」
菫は縁側で、古い呪符の束を静かに広げていた。
帰還してからの数日、彼女の腕には紅い痣が薄く残っている。
それでも、表情は穏やかだ。
菊乃は隣で茶を淹れながら、
「菫、もう少し休みなさい。
血の代償は、そう簡単に消えませんよ」
菫は小さく笑って、
「大丈夫です、お母様。
葵が無事なら、それで……」
葵はみーちゃんを下ろし、店先へ出る。
朝の風が、銘仙の袖を軽く揺らす。
近所のおじさんが通りかかり、
「おはよう、葵ちゃん。今日も可愛いねぇ」
と声をかけると、葵はぺこりと頭を下げる。
「えへへ、ありがとうございます〜。
水ようかん、いかがですか?」
そんな穏やかな朝だった。
だが——。
みーちゃんが、突然耳を立てた。
「にゃあ……」
低い唸り声。
葵の指先が、ほんのり疼く。
紅い線が、一瞬だけ濃くなった気がした。
葵は、そっと指を握りしめる。
「……あらあら〜、お腹がすいたのかしら?」
いつものように笑ってごまかす。
みーちゃんはまだ耳を伏せたまま、
窓の外をじっと見つめている。
茂さんが店から顔を出し、
「どうした、葵? 何か変な音でもしたか?」
葵は首を振って、
「いいえ、なんでもありませんわ。
ふふっ、きっと風の音ですわね」
遠くで、地鳴りがした。
微かで、誰にも気づかれないほど小さなもの。
地面の奥底から、息を潜めたような脈動。
それは、数日前から時折訪れる、
「まだ終わっていない」証だった。
昼近くになると、家族は店先で水ようかんを囲んだ。
菫が静かに切り出す。
「……四神の楔を、急がなければなりませんね」
菊乃が頷く。
「東の青龍から始めましょう。
浅草周辺に、最初の楔を打ち込む。
脈動の核は抑え込んではいるけれど……
震える大地は、いつ爆発してもおかしくない」
茂さんは黙って聞いていた。
戦う術はない。
ただ、家族の言葉を胸に刻むだけ。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、
「俺は……ここで待ってる。
みんなが帰ってくるまで、店を守るよ」
葵は父の手をそっと握る。
「お父様……ありがとうございます。
必ず、みんなで帰りますわ」
菫と菊乃が、静かに頷く。
みーちゃんは葵の膝に乗り、
低く喉を鳴らしながら、
外の空を睨むように見つめていた。
陽射しはまだ優しい。
水ようかんは、ひんやりと甘い。
でも、指先の紅い線は、
微かに、だが確実に、脈打っていた。
「あらあら〜、今日はいいお天気ですわね♪
みんなで、がんばりましょう」
葵の笑顔は、いつものように柔らかかった。
けれど、その瞳の奥に、
金色の光が、一瞬だけ——揺れた。




