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連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
桜餅と闇の臭い
6/12

第6話 父と娘の夕餉

六月に入ったばかりの夕暮れ。

青葉堂の店はすでに閉め、雨戸が下ろされ、店内の灯りが柔らかく漏れ出していた。


挿絵(By みてみん)



外では蝉の声がまだ控えめで、路地の瓦斯灯が一つずつ点灯し始め、淡い橙色の光が石畳を照らす。

葵は台所で夕餉の支度をしていた。


菊乃は友人宅へお見舞いに。

今日は父・茂の好物の鯵の塩焼きと、夏野菜の煮物、味噌汁。

小さな鍋から立ち上る湯気が、ほのかに甘い小豆の残り香と混じり、店全体を温かく包む。

「お父さん、もうすぐできるわよ〜」

葵の声が座敷に届く。

茂は新聞を畳み、ゆっくりと立ち上がって台所へ顔を出す。

四十八歳の彼は、肩幅が広く、穏やかな目元に少し疲れが見えるが、娘を見ると自然に口元が緩む。

「いつも悪いな、あおい。母さんがいないのに、こんなに美味い飯を作ってくれて」

「ふふっ、お父さんが喜んでくれるなら、私も嬉しいわ」

葵は焼き網から鯵を皿に移し、丁寧に盛り付ける。

茂は座卓に座り、娘の動きを静かに見つめる。

座卓に料理が並ぶと、二人は手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

味噌汁を一口啜り、茂が目を細める。

「今日の味噌汁、いつもより出汁が効いてるな。昆布と鰹のバランスがいい」

「えへへ、今日はおばあちゃんに教えてもらったの。おばあちゃんの出汁取りは本当に上手いわ」

茂は頷きながら、鯵の身を箸でほぐす。

「あおいは、本当に母さん似だな。菫さんも、料理の腕が良かった……」

葵の箸が、一瞬だけ止まる。

母の名前が出ると、胸の奥が少し疼く。

だが、すぐに笑顔に戻る。

「お母さん、帰ってきたら一緒にご飯作ろうね。お父さんも、もっと食べさせてあげないと」

茂は苦笑する。


「そうだな……菫さんが帰ってこないと、俺も少し寂しいよ。でも、あおいがいるから、毎日が楽しい」


二人はしばらく無言で箸を進める。

外の路地から、かすかな蓄音機の音が聞こえてくる。

近所の誰かが新しいレコードをかけているのだろう。

優雅なメロディーが、夕餉の時間を優しく彩る。

茂がぽつりと口を開く。

「あおい、最近……疲れてないか?」

葵は少し驚いて顔を上げる。

「え? どうして?」

「いや……なんだか、夜中に起きてる音が聞こえるんだ。庭の方で、何かしてるような……」

葵の心臓が、わずかに速くなる。


夜の決壊。小さな穢れを祓う時、決壊を張る瞬間に空気が重くなる。

父には気づかれないよう、いつも慎重にやっていたはずなのに。

「気のせいじゃないかしら? みーちゃんが夜中に走り回ってるだけかも」

葵は笑って誤魔化す。

茂は少し心配そうに娘を見るが、それ以上追及しない。

「そうか……ならいいんだが。無理はするなよ。あおいは、俺の自慢の娘なんだから」

「ありがとう、お父さん」

葵は優しく微笑む。

だが、心の奥で、父の言葉が重く響く。

この笑顔を守るためなら、どんな秘密も抱え続ける。

父に心配をかけるわけにはいかない。

食事が終わり、片付けをしながら、茂がラジオのスイッチを入れる。

大正の流行歌が流れ出す。

少し古い曲だが、懐かしいメロディー。

「この歌、すみれさんが好きだったな」

茂が呟く。

葵は父の横に座り、二人で静かに聴く。

歌詞は、遠くへ旅立った恋人を想う内容。

葵の胸が、ほんの少し締め付けられる。

「お母さん、元気にしてるかな……」

葵の声は小さく、父にだけ届く。

茂は娘の頭を優しく撫でる。


「ああ、きっと元気だよ。菫さんは強い人だからな。あおいも、菫さんに負けないくらい強い」


葵は父の手に自分の手を重ねる。

「うん……私、頑張るわ」

その時、外の路地で瓦斯灯の炎が一瞬だけ大きく揺れた。

影が、わずかに伸びる。

葵の瞳に、冷たい光が宿る。

「……また、近い」

声は誰にも聞こえない。

茂はラジオに耳を傾けていて、気づかない。

葵は深呼吸をし、すぐに笑顔に戻る。

「お父さん、お風呂沸かしておくわね。今日はゆっくり入って」

「ああ、ありがとう」

葵は台所へ向かいながら、窓の外をちらりと見る。

雨上がりの夜空に、月が薄く浮かんでいる。

穢れの気配は、まだ小さい。

でも、確実に近づいている。

父娘の穏やかな夕餉は、今日も静かに終わった。

青葉堂の灯りが、路地に優しく灯り続ける。



挿絵(By みてみん)


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