第6話「祖母の記憶」
夜明けの薄明かりが、障子を淡く染め始めた頃。
青葉家の囲炉裏には、再び小さな火が灯されていた。
葵は昨夜の暴走から、深い眠りに落ちている。
紅い線はまだ体を這っているが、脈打つリズムは穏やかになり、暴走の兆候は抑えられていた。
茂は葵のそばで眠りにつき、疲れ果てた体を畳に預けている。
菫は葵の額に新しい冷たい布を当てながら、静かに菊乃を見た。
菊乃は、囲炉裏の向かい側に正座し、目を閉じていた。
指先にも、細い紅い線が浮かんでいる。
菫が、低く問いかける。
「お母さん……葵の覚醒、あれは……」
菊乃は、ゆっくりと目を開いた。
老いた瞳に、遠い記憶が映る。
「わしの過去じゃ」
静かな声。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。
菊乃は、ゆっくりと語り始めた。
「大正の初め頃……まだ、わしが二十代の頃じゃ」
「青葉の血脈は、代々、女に強く現れる。男はただの器……だが、女は、封じる刃となる」
「わしも、葵と同じように、疼き始めた。最初は指先の小さな紅い線。やがて腕へ、胸へ、首へ……そして、全身を覆うようになった」
菊乃の指が、自身の首筋をなぞる。
今も、薄く残る紅い痕。
「初めての覚醒は、浅草の路地裏じゃった。まだ、瓦斯灯が灯り始めたばかりの夜。異界の使者が、一体……いや、二体現れた」
「わしは、まだ術を満足に扱えぬ若造じゃった。九字を切ろうとしても、手が震えて、護符が燃え尽きる前に触手に絡め取られた」
菊乃の声が、少し低くなる。
「その時、体が……勝手に動いた」
「紅い線が、全身を焼き尽くすように熱くなり、瞳が金色に変わった。痛みはなかった。ただ、冷たい……無の感覚だけじゃった」
「わしは、無表情で立ち上がり、触手を一本ずつ、引きちぎった。骨が砕ける音、肉が裂ける音……使者の悲鳴が、路地に響いた」
「最後の使者が、仮面の下から赤黒い瞳を剥き出しにした時……わしは、笑っていた」
「薄い、冷たい微笑みじゃ。『終わりじゃ』と、低く告げて……沸魂業湯を、最大出力で放った」
菊乃は、掌を広げる。
今は皺だらけの掌だが、当時は若く、力に満ちていたはず。
「紅蓮の湯が、使者を内側から溶かした。仮面が溶け、瞳が一つずつ潰れ、最後に本体が爆ぜて……黒い靄が消えた」
「終わった瞬間、わしは膝から崩れ落ちた。体中から血を吐き、意識を失った」
菫が、息を飲む。
「それが……初めての覚醒」
菊乃は頷く。
「二度目は、もっと酷かった。血脈が暴走し、わし自身が穢れに近づいた。家族を……夫を、傷つけかけたこともある」
視線が、眠る茂に移る。
「だから、茂には何も言わんかった。普通の娘でいてほしいと思ったのじゃ」
菫は、静かに手を握る。
「お母さんも……葵と同じように、苦しんだのね」
菊乃は、弱く微笑む。
「苦しい、というより……怖かった。自分が、自分でなくなる恐怖じゃ」
「だが、家族がいたから、耐えられた。夫が、毎朝、羊羹を焼いてくれた。『今日も美味いぞ』と笑ってくれた。あの笑顔が、わしを引き戻した」
囲炉裏の火が、揺れる。
菊乃は、葵の寝顔を見つめる。
「葵も、同じじゃ。茂の声、菫の温もり……それが、あの子を繋ぎ止めた」
「これから、もっと酷くなる。血脈の連鎖は、わしら三人を飲み込もうとする」
菫は、頷く。
「でも……家族が揃っているわ」
菊乃の目が、鋭く光る。
「じゃからこそ、負けられん」
地下から、脈動が——
今度は、ゆっくりと、嘲るように響いてくる。
菊乃は、立ち上がった。
「わしも、まだ戦える。昔と変わらぬ術を、披露してやろうかの」
老いた体に、かつての最強退魔師の気配が、わずかに戻る。
夜明けの光が、障子を優しく照らし始めた。




