第4話「母の刃」
深夜の青葉家は、静寂に包まれていた。
囲炉裏の火は灰ばかりになり、わずかな赤い残り火が部屋を薄く照らす。
葵はまだ意識を失ったまま、畳の上で浅い息を繰り返している。
茂は葵のそばに座り、娘の手を握り続け、時折額に触れて熱を確かめていた。
菫は、静かに立ち上がった。
指先の紅い線が、脈打つたびに疼きを増している。
「……来るわ」
低い声で呟く。
菊乃が、目を開く。
「使者か」
菫は頷き、銘仙の袖から小さな護符の束を取り出した。
「今夜は、私が」
茂が顔を上げる。
「菫……危ないんじゃないか?」
菫は、静かに微笑んだ。
「大丈夫。茂さんは、葵のそばにいて」
茂は言葉を飲み込み、ただ頷いた。
その瞬間——
家の外から、低い地鳴りが響いた。
地面が、わずかに震える。
障子の向こうに、黒い靄が這うように広がり始めた。
菫は玄関の引き戸を開け、夜の路地へ一歩踏み出した。
浅草の路地は、瓦斯灯の淡い光だけが点々と灯っている。
靄の中から、ゆっくりと姿を現したのは、異界の使者。
仮面のような白い顔、赤黒い瞳が三つ、無数の黒い触手が蠢く。
体は半透明で、路地の石畳を溶かすように黒い液体を滴らせている。
使者は、無音で近づく。
菫は、深く息を吐いた。
「来なさい」
指を交差させ、九字護身法を切る。
空気が、びりりと震えた。
使者が触手を振り上げる。
黒い鞭のように、菫へ襲いかかる。
菫は身を翻し、触手を躱す。
同時に、右手で護符を一枚引き抜き、投げつけた。
護符が空中で燃え上がり、光の針となって使者の仮面を貫く。
「光針穿刺」
低く、冷たい声。
使者の仮面に穴が開き、赤黒い瞳の一つが弾け飛ぶ。
黒い液体が噴き出し、路地に落ちて石を溶かす。
使者は悲鳴とも呻きともつかない音を上げ、残りの触手を一斉に振り回した。
菫は動じない。
両手を広げ、指先から淡い光の糸を紡ぎ出す。
「浄界七曜陣」
七つの光点が、菫を中心に円を描いて浮かぶ。
使者の触手が、光の円に触れた瞬間——
焼ける音がした。
肉が焦げる、骨が砕けるような、湿った音。
触手が一本ずつ、根元から溶け落ちる。
使者は後退しようとするが、光の円が収縮し、逃げ場を塞ぐ。
菫の瞳が、金色に輝き始めた。
「沸魂業湯」
両手を合わせ、紅蓮の炎が掌に灯る。
炎はすぐに液体のように変化し、沸騰した血のような赤い湯となって使者を包む。
使者の体が、じゅうじゅうと音を立てて溶け始めた。
仮面がひび割れ、赤黒い瞳が次々と潰れる。
最後の瞳が、恐怖に歪む。
菫は、無表情で呟く。
「紅蓮浄化」
紅い湯が一気に爆ぜ、使者の体を内側から焼き尽くした。
黒い靄が、悲鳴のような音を上げて消滅する。
残ったのは、路地の石畳に残る黒い染みだけ。
菫は、ゆっくりと息を吐いた。
金色の瞳が、瞬時に元の色に戻る。
指先の紅い線が、少しだけ濃くなった。
家の中へ戻る。
茂が、緊張した顔で待っていた。
「……終わったの?」
菫は、静かに頷く。
「ええ。一体だけだったわ」
葵のそばに座り、額に触れる。
熱は、まだ高い。
茂が、菫の手を取った。
「ありがとう……菫」
菫は、弱々しく微笑む。
「家族だから」
囲炉裏の残り火が、ぱちりと小さく音を立てた。
地下から、脈動が——
今度は、少し強く響いてくる。
まだ、終わっていない。




