第3話「ゆっくり、話そう」
夜が深まり、青葉家の囲炉裏の火は、橙色の小さな灯りだけを残していた。
障子越しに、遠くの街灯がぼんやりと滲む。
葵はまだ意識を戻さず、畳の上に静かに横たわっている。
呼吸は少しずつ落ち着き、額に当てられた冷たい布が、時折交換される。
みーちゃんは葵の足元で丸くなり、耳をぴくりと動かしながら眠っている。
菫は、茂の隣にそっと座った。
茂は膝を抱え、囲炉裏の火を見つめている。
涙の跡が頬に残り、職人の大きな手は、握りしめたり開いたりを繰り返していた。
菫は、静かに茶を淹れ直す。
湯気が、ゆらりと立ち上る。
「茂さん……少し、飲んで」
茶碗を差し出す。
茂は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」
声は掠れている。
茶碗を受け取り、両手で包むように持つ。
温かさが、手に染みる。
菫は、自身の指先の紅い線を、もう一度見つめた。
「怖いわよね……急に、こんな話をされて」
茂は、茶を一口飲んでから、頷く。
「怖いっていうか……頭が、追いつかない」
視線を葵に戻す。
「毎日、店で笑ってて……水ようかん作って、葵に味見させて……そんな普通の時間が、全部嘘みたいに思えてくる」
菫は、静かに首を振る。
「嘘じゃないわ。あの時間は、本当の葵よ」
茂の肩が、わずかに落ちる。
「でも……俺、何も気づけなかった。娘が、こんな痛い思いをしてるのに」
菫は、茂の手に、自分の手を重ねた。
今度は、茂は振り払わなかった。
「気づけなかったのは、私も同じよ。横浜にいた頃、葵の血脈が疼き始めたって、手紙で知った時……胸が張り裂けそうだった。でも、すぐに帰れなくて」
声が、少し震える。
「間に合わなかった……って、自分を責めてた。でも、責めても、葵の傷は癒えない」
茂は、菫の手を握り返した。
「菫……お前も、苦しかったんだな」
菫は、微笑む。
弱々しい、けれど優しい笑み。
「ええ。でも、葵は強い子よ。あの子、戦いの最中でも……きっと、家族のことを思ってた」
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
菫は、ゆっくりと続ける。
「この血脈の力は、代償が大きい。葵の体は、もう普通には戻らないかもしれない。でも……家族が揃っていれば、きっと、支え合える」
茂は、葵の顔を見つめながら、呟く。
「俺に、できることなんて……」
菫が、遮るように言う。
「できるわよ。茂さんは、いつも葵に笑顔をくれた。羊羹を焼いて、水ようかんを冷やして……そんな日常が、葵の支えだったの」
茂の目が、潤む。
「それで、十分?」
菫は、頷く。
「十分よ。今は、それで」
二人は、しばらく無言で火を見つめた。
地下から、微かな脈動が響く。
まだ、遠い。
だが、確実に、そこにある。
菫は、茂の肩に、そっと頭を寄せた。
「ゆっくり、話そう。急がなくていいから」
茂は、菫の髪に触れ、静かに頷いた。
「そうだな……ゆっくり、な」
葵の指が、微かに動く。
意識はまだ遠いが。
息は、確かに、穏やかになっていた。
囲炉裏の火が、優しく揺れる。
夜は、まだ長い。




