第2話「すべてを、話す」
夕暮れの茜色が、青葉家の障子を淡く染めていた。
囲炉裏の火は小さく揺れ、部屋の中は静かすぎるほど静かだった。
葵は畳の上に横たわったまま、意識を失っていた。
包帯に染みた血は乾き始め、左肩の抉れた傷口からまだ微かに熱が立ち上っている。
左腕は力なく畳に落ち、右足は添え木で固定されたまま動かない。
息は浅く、時折、微かなうめきが漏れるだけ。
菫は葵の額に冷たい布を当て続け、指先で九字を切りながら祈るように呟く。
「……もう少し、もう少し持ちこたえて……」
菊乃は囲炉裏のそばで、動かず座っている。
目だけが、鋭く光っていた。
その時、玄関の引き戸が開く音。
「ただいま〜。今日はちょっと遅くなったよ」
茂の声が、いつも通り明るく響いた。
和菓子屋の仕事着に、両手に小さな包み。
水ようかんの試作品だ。
茂は靴を脱ぎ、上がってきて——
部屋の空気に、凍りついた。
「……葵?」
包みが、畳に落ちる。
水ようかんが、ぽとりと転がり、転がった先で止まる。
茂の視線は、葵の血まみれの姿に釘付けになった。
「葵……!」
駆け寄り、膝をつく。
手が震え、葵の頬に触れようとして——途中で止まる。
「どうして……こんな……」
声が、掠れる。
菫が、静かに立ち上がった。
「茂さん……」
茂は振り向かない。
葵の顔を、ただ見つめている。
「葵、起きてくれ……葵……」
指先が、葵の髪に触れる。
冷たい。
茂の肩が、震え始めた。
「事故か? 誰かにやられたのか? 病院は? 医者は?」
言葉が、乱れる。
菫は深く息を吸い、ゆっくりと語り始めた。
「茂さん。座って。すべて、話すわ」
茂は、ようやく顔を上げた。
目が赤く、涙で濡れている。
「……話すって、何を」
菫は葵のそばに座り直し、茂の隣に膝を寄せた。
「私たちは……普通の家族じゃないの」
茂の眉が、深く寄る。
「何を、言ってるんだ……」
菫は自身の指先を、茂に見せた。
細い紅い線が、ゆっくりと脈打っている。
「青葉の血には、昔から特別な力がある。穢れを祓う力……魔物を封じる力」
茂は、首を振る。
「そんな……馬鹿な」
菊乃が、低く口を開いた。
「わしも、昔は最前線で戦っておった。今は、葵に託しておる」
茂の視線が、菊乃に移る。
「母さんまで……」
菫は続ける。
「葵はこの力のせいで、地下の祠で……大きな穢れと戦った。一人で。倒した。でも、その代償が、この傷」
茂は、葵の包帯に視線を落とす。
抉れた肩。
動かない左腕。
不自然に曲がった右足。
「戦った……? 葵が? 一人で?」
声が、震える。
信じられない。
受け入れられない。
茂は、ゆっくりと立ち上がった。
「いや……いや、そんなはずはない」
後ずさる。
「葵は、ただの娘だ。和菓子を手伝って、笑って……そんな普通の……」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
「俺は……何も知らなかった。毎日、羊羹焼いて、水ようかん作って……家族を守ってるつもりで……」
拳を握りしめる。
「なのに、娘がこんな目に……! 俺は何もできなかった……!」
菫が、茂の手を取ろうとする。
茂は、振り払うように手を引いた。
「触るな……!」
一瞬の沈黙。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。
茂は、畳に膝をつき、額を畳に押しつけた。
「……ごめん。菫」
嗚咽が、漏れる。
「俺……まだ、信じられない。こんな話……受け入れられない」
菫は、静かに頷く。
「いいのよ。急に、全部受け入れなくていい」
葵の指が、微かに動いた。
意識はまだ戻らない。
だが、息が少しだけ、深くなった。
茂は、ゆっくりと顔を上げ、葵の顔を見つめる。
「葵……お前、そんな重いものを、一人で背負ってたのか」
声が、絞り出される。
「俺の娘なのに……俺の、娘なのに……」
みーちゃんが、茂の膝にそっと頭を擦りつける。
茂は、みーちゃんを抱き上げ、葵のそばに置いた。
「俺に、何ができる?」
菫に、問う。
菫は、静かに微笑んだ。
「今は、ただ……ここにいて。葵のそばに」
茂は、頷く。
涙を拭い、葵の手を、そっと握った。
大きく、職人の手。
温かい。
地下から、微かに——
脈動が、再び響いてくる。
まだ、遠いが。
確実に、近づいている。
茂の握った手が、わずかに強くなった。
「……俺は、家族だろ」
呟きは、小さかった。
だが、確かに、そこにあった。




