第1話「間に合わなかった…」
東京駅のホームは、汽笛の残響と人の波でざわめいていた。
大正の空はまだ青く、午後の陽光が瓦斯灯のガラスに反射してきらめく。
列車がようやく停車し、ドアが開くと同時に、一人の女性が飛び出すように降り立った。
菫だった。
髪は乱れ、銘仙の裾が埃で汚れている。手に握った小さな包み——護符の束と、葵への手紙——が、わずかに震えていた。
息を切らし、周囲を見回す。
「間に合わなかった……?」
呟きが、唇から零れる。
横浜での使者との死闘で負った傷が、まだ疼く。列車の遅延が、胸を抉るように悔やまれる。
ホームの喧騒の中、遠くから——誰にも聞こえないはずの——地鳴りが、低く響いた。
菫は唇を噛み、荷物を肩にかけ直す。
人力車を拾い、馭者に「浅草の青葉家まで、急いで」と告げた。
下町の通りを抜ける。
銘仙姿の女性たちが笑い合い、羊羹を売る露店の呼び声が響く。
カフェーから、蓄音機の軽やかな調べが漏れてくる。
「ふふっ、今日の水ようかんは上出来ですわね〜」
そんな声が、遠くで聞こえるはずの日常。
菫の胸は、焦燥で締め付けられる。
人力車が、ようやく青葉家の前に停まった。
玄関の引き戸が、わずかに開いている。
中から、血の匂いが漂う。
菫は車を降りるなり、駆け寄った。
そこに立っていたのは、菊乃だった。
腕に、血まみれの葵を抱えている。
葵の左肩は抉れ、包帯が赤黒く染まっている。左腕は力なく垂れ、右足は不自然に曲がっていた。
全身から血が滴り、畳にぽたぽたと落ちる。
菊乃の顔は疲弊しきっているが、目はまだ鋭く光っていた。
「……菫」
菊乃の声は、低い。
菫は、息を飲んだ。
「葵……!」
駆け寄り、膝をつく。
葵を抱き取ろうと手を伸ばすが、菊乃がわずかに身を引く。
「まだ、動かすな。脈が弱い」
菫の目から、涙が溢れた。
「間に合わなかった……私が、もっと早く……!」
嗚咽が、喉を詰まらせる。
その瞬間——
葵の瞼が、ゆっくりと開いた。
金色の瞳が、薄く光る。
「……お母さん」
弱々しい声。
そして、いつものように。
「あらあら〜……びっくりしたわ……ふふっ」
唇の端に、柔らかい笑みが浮かぶ。
重傷の体で、血を滴らせながら。
5秒もかからず、いつもの葵に戻っていた。
菫は、堪えきれず葵を抱きしめた。
「葵……葵ぅ……!」
号泣しながら、浄化の術を即座にかけ始める。
指先から淡い光が流れ、葵の傷口を包む。
菊乃は静かに二人を見下ろし、呟いた。
「よく、持ちこたえたのう……葵は」
家の中へ、三人を運び入れる。
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てる。
菫は葵を畳に横たえ、急いで応急処置を続ける。
包帯を巻き直し、薬草を塗り、九字を切る。
葵は、弱々しく目を細めて微笑む。
「えへへ……お母さんの匂い、懐かしい……」
菫の手が、止まった。
自分の指先を見下ろす。
そこに、細い紅い線が——
ゆっくりと、浮かび上がっていた。
「これは……」
菊乃が、静かに頷く。
「血脈の連鎖じゃ。葵だけでは、済まなくなった」
囲炉裏の火が、揺れる。
地下から、微かに——
脈動が、響いてくる。
まだ、終わっていない。
遠くで、地鳴りが、再び低く唸った。




