第5話 雨の日の店内
大正十年、梅雨入り前の五月半ば。
朝から空は灰色に覆われ、ぽつぽつと雨粒が瓦屋根を叩き始めた。
青葉堂の店先は、普段より少し湿った空気に包まれている。
暖簾は雨除けに少し内側に寄せられ、軒下の朝顔の鉢には水滴が光っていた。
葵は店内の奥、作業台の前に立っていた。
白いエプロンを腰に巻き、袖をたくし上げて、羊羹の仕込みに集中している。
今日は甘さを少し抑えた「夏向きの羊羹」を作る日だ。
寒天を煮溶かし、砂糖と小豆を加え、ゆっくりとかき混ぜる手つきは、まるで子守唄を歌うように優しい。
「あらあら、今日は雨だから、お客さん少ないかしらね」
葵は窓の外を見ながら、ふっと微笑む。
雨音が店内に響き、どこか心地よい。
父・茂は帳簿を閉じて、奥の座敷へ。
「あおいちゃん、今日は俺も手伝うよ。羊羹の型入れ、手伝おうか」
「ありがとう、お父さん。でも今日は私一人で大丈夫。ゆっくり休んでて」
茂は苦笑しながら頷き、座敷で新聞を広げる。
ラジオからは、かすかな浪花節が漏れてくる。
作業台の横では、祖母・菊乃が小さな盆に羊羹の試食を乗せて座っている。
七十八歳の彼女は、今日も静かに孫の仕事を見守っていた。
「あおい、火加減はどう?」
「ちょうどいいわ。おばあちゃん、味見してみて」
葵は小さな竹べらで羊羹をすくい、菊乃に差し出す。
菊乃は一口含み、目を細める。
「うん……上出来だね。甘さが控えめで、夏にぴったり」
「ふふっ、よかった。おばあちゃんの言葉が一番嬉しいわ」
二人はしばらく無言で作業を続ける。
雨音が強くなり、軒先から水が滴り落ちる音が加わる。
そんな中、近所のおばちゃんが傘を差して店に入ってきた。
「あら、あおいちゃん。雨の中、ご苦労さん」
「おばちゃん、いらっしゃいませ。今日は雨だから、温かいお茶でもどう?」
葵はすぐに湯を沸かし、煎茶を淹れる。
おばちゃんは座敷の隅に腰を下ろし、菊乃と昔話に花を咲かせる。
「菊乃さん、昔はこの辺り、もっと寂しかったわよね。戦争の後なんて……」
菊乃は静かに頷く。
「そうね。あの頃は、夜になると変なものがうろついてね」
おばちゃんが笑う。
「また菊乃さんの昔話? 幽霊が出たって話?」
「ふふ、気のせいだったのかもね」
葵は聞きながら、羊羹を型に流し込む。
だが、祖母の言葉の端に、ほんの少しの重みを感じていた。
菊乃の昔話は、いつも「昔話」で終わらない。
どこかで、本当のことを隠しているような気がする。
午後になると、雨は本降りになった。
店は閑古鳥が鳴き、葵は作業を続けながら、時々窓の外を見る。
路地の向こうで、瓦斯灯がまだ点いていない時間帯なのに、影が濃く感じる。
「…………」
葵の指が、一瞬だけ止まる。
羊羹の表面に小さな気泡が浮かび、それを丁寧に消す。
雨音と混じって、かすかに歪んだ音が聞こえる気がした。
いや、気のせいだろう。
小雪が帰った後、店を閉める時間になる。
葵は雨戸を閉め、店内を片付ける。
みーちゃんが濡れた体で庭から入ってきて、葵の足元にスリスリ。
「にゃんちゃん、雨に濡れちゃったの? 拭いてあげる」
葵はタオルでみーちゃんを優しく拭く。
その時、路地の奥から、ぽつりと瓦斯灯が灯った。
炎が揺れ、影が長く伸びる。
葵の動きが止まる。
瞳に、冷たい光が宿る。
「……また、近づいてきたわね」
声は小さく、雨音にかき消される。
みーちゃんが急に毛を逆立て、低く唸る。
葵は無表情で立ち上がり、店内の灯りを一つ落とす。
決壊を張る準備だ。
だが、今日はまだ「小さな影」だけ。
本格的なものは、まだ来ていない。
「今は……まだ、待つわ」
葵は深呼吸をし、いつもの笑顔に戻る。
みーちゃんを抱き上げ、座敷へ。
「おばあちゃん、お父さん。お夕飯に、温かいお吸い物にしましょう」
菊乃は静かに頷き、茂は新聞を畳む。
雨は夜通し降り続いた。
青葉堂の小さな灯りが、雨のカーテンの中で揺れている。




