第7話「封じの休息」
青葉家の座敷は、静かだった。
障子越しに差し込む朝の光が、畳に柔らかな影を落とす。
葵は布団に横たわり、薄い毛布を胸まで引き上げていた。
顔色は青白く、額に細かな汗が浮かんでいる。
菊乃が、そっと葵の額に手を当てる。
冷たい手が、熱を吸い取るように優しい。
「……熱は下がったな。
だが、もう限界だ」
菊乃の声は、低く落ち着いている。
葵は弱々しく目を細めて笑う。
「えへへ……おばあちゃん、ごめんなさい。
昨日は、ちょっと無理しちゃったみたいで……」
菊乃は小さく首を振る。
「無理をしたのは、お前じゃない。
血脈が、無理をさせているんだ」
菊乃は立ち上がり、座敷の隅に置かれた古い箪笥を開ける。
中から、黒く艶やかな小さな箱を取り出す。
蓋を開けると、中には古い護符と、赤い紐で結ばれた短い棒が収まっている。
「今日から、お前は外出禁止だ。
家から一歩も出るな」
葵の瞳が、わずかに揺れる。
「……でも、お父さんのお手伝いや、買い物が……」
「茂には、私が適当に言い訳しておく。
お前は、休め。
血を抑える術を、もう一度、完全にやり直す」
葵は小さく頷く。
だが、胸の奥で脈動が、まだ微かに響いているのがわかる。
その日の午後。
浅草の路地裏、
いつも葵が通る裏通りで、
異変が起きた。
地面が、低く震え、
瓦斯灯の影が不自然に長く伸びる。
黒い靄が湧き上がり、
三体の異界悪魔の使者が現れる。
仮面の目元から赤黒い光が漏れ、
周囲の空気を腐食させる。
使者たちは、
青葉家の方角を向く。
「……紅の……娘……
血脈の……灯火……
ここに……いる……」
低い呻きが、重なる。
だが、その前に立ち塞がったのは、
菊乃だった。
銘仙の着物ではなく、
古い黒い袴に、
袖をたくし上げた姿。
腰に差した短刀は、
渡辺清隆と共闘した頃のまま、
刃こぼれ一つない。
菊乃の瞳が、静かに金色に変わる。
「孫を、
狙うなら、
私を通せ」
声は穏やかだが、
抑揚のない冷たさは、
葵の決壊時を上回る。
使者たちが一斉に動く。
黒い触手が、
菊乃の四方から襲いかかる。
菊乃は動かない。
ただ、右手で九字を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
光の線が、菊乃を中心に円を描く。
触手が光に触れた瞬間、
じゅううう……と、
肉が溶けるような音が連続する。
使者たちが、
同時に仮面を砕く。
赤黒い目が複数露わになり、
体が膨張する。
菊乃は一歩踏み出す。
「浄界七曜陣・極」
七つの光の星が、
路地全体を覆う。
星の配置が、
まるで星座のように鮮やか。
大正の空の下で、
古の呪術が、
変わらぬ輝きを放つ。
光の星が回転し始め、
使者たちの体を内側から締め上げる。
「ぐ……ぁぁ……
古き……退魔師……!」
骨が砕ける音。
肉が引き裂かれる音。
黒い血が、噴き出す。
菊乃は短刀を抜く。
刃に、紅い光が宿る。
それは、葵の紅とは違う――
より深く、
より古い紅。
「沸魂業湯・紅蓮浄化・封」
紅い炎が、
短刀の先から螺旋を描いて放たれる。
炎は使者たちを包み、
内側から煮えたぎらせる。
仮面が溶け、
赤黒い目が次々と潰れ、
悲鳴が路地に響き渡る。
三体すべてが、
同時に崩壊する。
黒い靄が散り、
静寂が戻る。
戦闘は、二十秒ほど。
菊乃の金色の瞳が、瞬時に元の色に戻る。
着物の袖を軽く払い、
息一つ乱れていない。
「……まだ、若い頃のようにはいかんがな」
小さく呟き、
菊乃は家の方へ歩き出す。
座敷に戻ると、
葵は布団の中で目を覚ましていた。
「おばあちゃん……
外で、何かあったの?」
菊乃は穏やかに微笑む。
「なんでもないよ。
ただの、昔の知り合いさ」
葵はふっと笑う。
「ふふっ……おばあちゃん、強いのね。
昔から、ずっと」
菊乃は葵の額に手を置き、
護符をそっと胸に当てる。
「休め、葵。
私がいる限り、
お前はまだ、守られる」
だが、菊乃の目には、
わずかな影が差していた。
脈動は、
地下で、
さらに深く、
速くなっている。




