第6話「疼きの果て」
夜の浅草、路地裏の瓦斯灯が青白く揺れている。
青葉葵は、父・茂が寝静まった後、ひとりで家を出ていた。
銘仙の上に薄手の羽織をかけ、
足音を忍ばせて裏通りを歩く。
胸の奥で、脈動が止まらない。
左腕の紅い線は、今夜は消えていない。
肘から肩へ、肩から鎖骨へ、
ゆっくりと這い上がっている。
「あらあら……今日は、ちょっと我慢できないみたいね」
葵は小さく笑う。
だが、その笑顔はいつもより薄い。
目的は、浅草寺の裏手にある古い祠。
菊乃が昔、「ここは最後の砦だ」とだけ言っていた場所。
葵は今、抑えきれない疼きを、
そこで封じ込めようとしていた。
祠の前に立つ。
苔むした石段を上がり、
小さな賽銭箱の前に膝をつく。
手を合わせ、目を閉じる。
「……お願いします。
もう少しだけ、抑えてください」
だが、祈りの言葉が終わる前に。
胸の紅い線が、爆発的に広がった。
左腕から右腕へ、
首筋へ、
額へ。
金色の瞳が、完全に支配される。
葵の体が、ぴくりと震える。
「……っ」
低く、抑揚のない声。
立ち上がる葵の姿は、
いつものほんわかした少女ではない。
無表情に近い、冷たい微笑み。
祠の周囲の空気が、重くなる。
瓦斯灯の炎が、すべて一瞬で縮こまる。
地面から、黒い靄が湧き上がる。
今夜は、使者ではない。
もっと根源的なもの――
東京の地下を這う、紅い触手のような影。
異界の脈動が、
葵の血脈に呼応して、
実体化し始めた。
触手が、葵の足元を狙う。
葵は動かない。
ただ、右手をゆっくりと上げる。
「浄界七曜陣」
七つの光の星が、祠を中心に描かれる。
触手が光に触れた瞬間、
じゅう……と肉の焼ける音。
だが、触手は無数。
一本倒せば、二本、三本と増える。
葵の額から、紅い汗が滴る。
代償が、身体を蝕み始めている。
「……まだ、
足りない」
薄い微笑み。
葵は両手を広げる。
沸魂業湯・紅蓮浄化。
紅い炎が、祠全体を包む。
触手が内側から沸騰し、
黒い肉が溶け、
骨のような芯が砕ける音が連続する。
「ぐ……ぁぁ……
紅の……血……!」
触手の群れが、悲鳴を上げて崩れていく。
だが、最後の一本が、
葵の胸を貫こうとする。
葵はそれを、素手で掴む。
紅い炎が、手のひらから噴き出す。
触手が、煮えたぎりながら引き裂かれる。
「…………終わり」
宣告。
すべてが静かになる。
戦闘は、一分ほど。
葵の体が、がくりと膝をつく。
金色の瞳が、ゆっくりと青に戻る。
紅い線は、胸の中心に残ったまま、
脈打っている。
息が荒い。
額に、冷や汗。
「……ふふっ……
やっぱり、今日はきつかったわね」
葵は立ち上がろうとするが、
足がもつれて倒れ込む。
その時、
祠の影から、菊乃が現れる。
「おばあちゃん……」
葵は弱々しく笑う。
菊乃は無言で近づき、
葵を抱きかかえる。
「もう、限界だな……
これ以上、抑え込もうとするな」
菊乃の声は、低く震えていた。
葵は菊乃の胸に顔を埋める。
「えへへ……ごめんなさい。
でも、まだ……大丈夫ですよ」
だが、その言葉とは裏腹に、
葵の体は小刻みに震えていた。
遠く、東京の地下で、
地鳴りが、
今までで一番深く、響いた。
脈動は、
もはや、
抑えきれない。




