第5話「母の戦い」
同時刻、横浜の外れ。
古い港の倉庫街、潮の匂いが濃く立ち込める一角。
夕陽が海面を赤く染め、
波止場の鉄骨に長い影を落とす。
菫、青葉菫は、
黒いコートを羽織ったまま、
静かに立っていた。
四十路を過ぎたとは思えぬ、
凛とした立ち姿。
髪は短く切り揃え、
銘仙ではなく、動きやすい洋装。
だが、腰に差した短刀の鞘だけは、
古い退魔の家系の証。
倉庫の扉が、軋む音を立てて開く。
中から、複数の影が這い出る。
異界悪魔の使者――
先ほど浅草で葵と対峙したものと同じ、
仮面を被った黒いコートの群れ。
五体。
それぞれの仮面の目元から、
赤黒い光が漏れている。
「……紅の……血脈……
娘は……遠く……
だが、母は……ここに……」
先頭の使者が、低く呟く。
菫は小さく息を吐く。
表情は穏やかだが、
目はすでに戦いの色を帯びている。
「葵の血を、
お前たちに渡すつもりはない」
声は静か。
だが、抑揚のない冷たさは、
葵の決壊時と変わらない。
使者たちが一斉に動く。
黒い触手が、
倉庫の床を腐食させながら、
菫に向かって伸びる。
菫の右手が、素早く動く。
九字護身法。
光の線が、彼女の周囲を円を描く。
触手が光に触れた瞬間、
じゅう……と焼ける音が響く。
「無駄だ……母よ……
お前の血も……すでに……我らの……」
使者の一人が、仮面を外す。
中から、複数の赤黒い目が現れる。
体が膨張し、
黒い肉の塊が、
菫を包み込もうとする。
菫は一歩も引かない。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
彼女の周囲に、紅い炎が渦を巻く。
炎は、触手を瞬時に焼き尽くし、
使者の体を内側から煮えたぎらせる。
「ぐ……ぁぁぁ……!
紅の……業火……!」
肉が溶ける音。
骨が砕ける音。
悲鳴が、倉庫内に反響する。
だが、使者たちはまだ倒れない。
残りの四体が、
同時に仮面を砕き、
赤黒い目を露わにする。
菫の左腕に、
細い紅い線が浮かぶ。
葵と同じ血脈の証。
だが、菫のそれは、
すでに何年も前から疼き続け、
抑え込まれている。
「…………まだ、
足りない」
菫の瞳が、金色に変わる。
薄い、冷たい微笑み。
彼女は短刀を抜く。
刃に、紅い光が宿る。
「浄界七曜陣」
七つの光の星が、倉庫の床に描かれる。
使者たちの動きが、一瞬、止まる。
菫は跳ぶ。
短刀が、最初の使者の胸を貫く。
黒い血が噴き出し、
体が内側から崩壊する。
二体目、三体目。
短刀の軌跡に沿って、紅い炎が追う。
肉が裂け、骨が砕け、
悲鳴が途切れなく続く。
四体目が、
最後の抵抗で触手を伸ばす。
菫の肩を、浅く裂く。
血が、滴る。
だが、菫は表情を変えない。
「…………終わり」
短刀を振り下ろす。
紅い光が爆発し、
残る使者すべてを飲み込む。
倉庫内に、
黒い靄が散り、
静寂が戻る。
菫は短刀を鞘に収め、
肩の傷を押さえる。
紅い線は、腕から胸へ広がっていたが、
ゆっくりと引いていく。
息を整え、
菫は空を見上げる。
遠く、東京の方角。
地鳴りが、微かに響いている。
「……葵。
もう、時間がないわね」
彼女はコートのポケットから、
新しい封書を取り出す。
筆を走らせ、
短く書く。
――葵へ。
使者が来た。
横浜にも、すでに浸食が始まっている。
お前の血が目覚めれば、
闇は加速する。
だが、抑えきれないなら……
私が、代わりに封じる。
待っていて。
必ず、帰るから。
封を閉じ、
菫は倉庫を出る。
潮風が、
彼女の髪を揺らす。
脈動は、
母と娘の間で、
同じリズムで、
速くなっていた。




