第4話「紅の兆し」
夕暮れの浅草、提灯の灯りがぼんやりと路地を染め始める頃。
青葉葵は、父・茂の和菓子屋から少し離れた裏通りを歩いていた。
今日はいつもより買い出しが長引いて、
水ようかんの材料を買い足しに銀座まで足を伸ばした帰り道。
銘仙の裾を軽く持ち上げて、
葵は小さく鼻歌を歌う。
「ふふっ、今日はお父さんに新しい羊羹の味を試してもらおうかしら♪
黒糖に少しだけ生姜を入れて……あらあら、楽しみね」
だが、その鼻歌が途切れた。
路地の奥、
瓦斯灯の下に、
人影が立っていた。
いや、人影ではない。
人間の形を借りた、
何か。
背は高く、黒いコートを纏い、
顔は――
白い仮面のようなもの。
だが、その仮面の目元から、
赤黒い光が漏れている。
異界悪魔の使者。
葵の足が、ぴたりと止まる。
使者はゆっくりと首を傾げ、
低い、金属を擦るような声で呟く。
「……紅の……娘……
血脈の……灯火……
我が主が……呼んでいる……」
声は周囲の空気を震わせ、
路地の瓦斯灯が一斉に揺らぐ。
炎が、まるで怯えるように縮こまる。
葵の瞳が、瞬時に金色に変わる。
「…………来ないで」
声は低く、冷たい。
いつもの「あらあら〜」はどこにもない。
使者が一歩踏み出す。
その足元から、黒い靄が這い出し、
地面を腐食させるように溶かしていく。
石畳が、じゅう……と湿った音を立てる。
葵は九字を切る。
だが、光針穿刺は、使者の仮面に触れた瞬間、
霧散する。
「無駄だ……紅の娘……
お前の血は……すでに……我らのもの……」
使者の腕が伸びる。
黒い触手のようなものが、葵の首を狙って飛ぶ。
葵は身を翻し、
圧縮封魔・五芒星崩壊を放つ。
五芒星の光が使者を包む。
だが、光はすぐに歪み、
内側から押し返される。
「……っ」
葵の左腕に、紅い線が広がる。
今度は、指先から肘まで。
血管のように、脈打つ。
決壊が、始まっている。
金色の瞳が、底知れぬ冷たさを帯びる。
薄い、冷たい微笑みが浮かぶ。
「…………なら、
全部、砕いてあげる」
葵の右手が、虚空を掴むように動く。
沸魂業湯・紅蓮浄化。
周囲の空気が一瞬で熱を帯び、
紅い炎が使者の体を包む。
仮面がひび割れ、
中から、黒い肉が溶け出す。
「ぐ……ぁぁぁ……
紅……の……業火……!」
使者の体が、内側から沸騰するように膨張する。
骨が砕ける音。
肉が煮立つ音。
悲鳴が、路地に響き渡る。
だが、使者はまだ倒れない。
仮面の割れ目から、赤黒い目が複数、葵を睨む。
「お前は……我らの……糧に……なる……」
触手が再び伸び、
葵の腹を貫こうとする。
葵は動かない。
ただ、冷たく見据える。
紅い線が、左腕から肩へ、
肩から胸へ、
胸から首へ。
決壊が、深くなる。
次の瞬間。
葵の全身から、紅い光が爆発的に広がる。
光は炎となり、
触手を焼き尽くし、
使者の体を内側から引き裂く。
「…………終わり」
低く、宣告する声。
使者の仮面が完全に砕け、
中から黒い血が噴き出す。
体が崩れ、
靄となって消えていく。
最後に、
使者の声が、残響のように響く。
「……主は……待っている……
震える……大地が……お前を……呼ぶ……」
すべてが静かになる。
戦闘は、三十秒ほど。
葵の金色の瞳が、ゆっくりと青に戻る。
紅い線は、胸の辺りまで残ったまま、
ゆっくりと薄れていく。
葵は深く息を吐き、
着物の袖を払う。
「あらあら〜、ちょっと汚れちゃったわね……
お父さんに怒られちゃうかも♪」
いつもの柔らかな笑顔が戻る。
だが、歩き出す足取りは、
わずかにふらついている。
路地の出口で、
菊乃が立っていた。
「……葵」
葵はびっくりしたように目を丸くする。
「おばあちゃん!?
どうしてここに……」
菊乃は静かに近づき、
葵の左腕をそっと掴む。
紅い線は、まだ完全に消えていない。
「抑えきれなくなってきたな……
これ以上、ひとりで抱え込むな」
葵は小さく笑う。
「えへへ……大丈夫ですよ。
まだ、まだいけますから」
だが、その笑顔の奥で、
胸の脈動が、
ますます速くなっている。
遠くの空で、
地鳴りが、
今までで一番、はっきりと響いた。




