第3話「銀座の午後」
銀座の通りは、いつもより少しだけ賑わっていた。
大正の陽光が、ガラス窓に反射してきらきらと跳ねる。
モガたちの笑い声、ハイヒールの軽やかな音、
カフェーから漏れる蓄音機の調べ。
青葉葵は、ひとりでゆっくりと歩いていた。
今日は麗子とは会わず、ただ街の空気を確かめに来た。
いや、
確かめざるを得なかった。
銘仙の袖を軽く払いながら、
葵は小さく息をつく。
「あらあら〜、今日はなんだか人が多いわね。
新しいお店ができたのかしら♪」
いつもの柔らかな笑顔。
周りの人々は、誰も気づかない。
葵の左手の人差し指の先が、
時折、ぴくりと震えていることに。
カフェーのテラス席で、
水ようかんを注文する。
透明な器に、ぷるんと揺れる緑。
一口含むと、涼やかな甘さが広がる。
「ふふっ、おいしい……」
だが、その瞬間。
視界の端で、何かが動いた。
銀座の路地、瓦斯灯の影が伸びる一角。
そこに、黒いシルエットが立っていた。
モガの装い。
だが、顔が……ない。
いや、顔の代わりに、
黒い靄のようなものが渦を巻いている。
葵の瞳が、一瞬、金色に変わる。
周囲の喧騒が、遠のく。
影のモガは、ゆっくりとこちらを向く。
ないはずの口が、裂けるように開く。
低い、呻きのような声が響く。
「……紅……の……娘……」
葵は静かに立ち上がる。
テーブルの上の水ようかんを、そっと置く。
「えへへ、ごめんなさいね。
ちょっと席を外しますわ」
誰にも聞こえない声で呟き、
葵は路地の方へ歩き出す。
人通りが少ない裏道。
影のモガが、追うように近づく。
葵の背中が、ぴたりと止まる。
「…………来なさい」
声は低く、抑揚がない。
金色の瞳が、冷たく細まる。
影のモガが飛びかかる。
黒い靄が、爪のように伸びる。
葵の右手が、素早く九字を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
光針穿刺。
細い光の針が、無音で影を貫く。
靄が悲鳴を上げ、肉が溶けるような湿った音がする。
「ぐ……あぁぁ……」
影のモガが崩れ落ちる。
だが、すぐに再生する。
靄が再び集まり、形を取り戻す。
葵の左手の指先から、紅い線が這い出す。
今度は、消えない。
「……まだ、足りないのね」
薄い、冷たい微笑み。
葵は一歩踏み出す。
圧縮封魔・五芒星崩壊。
空気が歪み、五芒星の光が影を包む。
骨の砕ける音。
靄が内側から引き裂かれ、
黒い血のようなものが飛び散る。
「………………終わり」
影のモガは、最後に一度だけ、
「紅……」と呻いて消えた。
戦闘は、十数秒。
葵の金色の瞳が、瞬時に元の青に戻る。
「あらあら〜、汚れちゃったわ」
着物の袖を軽く払う。
血の跡など、どこにもない。
路地を出て、銀座の通りに戻る。
カフェーのテラス席に戻り、
水ようかんをもう一口。
「ふふっ、まだ冷たくておいしい♪」
周りの客たちは、何も気づいていない。
ただ、葵の笑顔が、
いつもより少しだけ、穏やかすぎる。
遠くの空で、
また、低い地鳴りが響いた。
今度は、
少しだけ、近くに。
葵はそっと目を閉じる。
胸の奥で、脈動が速くなっている。
まだ、
始まったばかり。




