第1話「疼きの朝」
浅草の路地裏、朝の柔らかな陽光が銘仙の着物に優しく染みる。
青葉葵はいつものように、台所で羊羹を丁寧に切っていた。
包丁の刃が、黒糖の表面を滑る音。
ふわっと甘い香りが広がる。
「あらあら〜、今日もきれいに切れたわ♪」
葵は小さく笑って、父・茂の分の羊羹を皿に載せる。
父は和菓子屋の仕事場から顔を覗かせ、
「葵、朝からえらいな。昨日も遅くまで何かしてたんじゃないか?」
と優しく尋ねる。
「えへへ、大丈夫ですよ。お父さんこそ、今日もがんばってくださいね♪」
みーちゃんが足元で「にゃあ」と甘える。
葵はしゃがんで頭を撫でる。
その瞬間――。
指先の先、爪のすぐ下から、
細い紅い線が一瞬、ぴくりと走った。
……っ。
葵の笑顔が、ほんの一瞬だけ凍る。
金色の瞳が、普段の柔らかな青に戻る前に、
底知れぬ冷たさを宿して瞬く。
だが、次の息で。
すべて元通り。
「ふふっ、みーちゃんったらお腹すいたのね。ごはんあげるわよ〜」
何事もなかったように、葵は立ち上がる。
父は何も気づかず、仕事場へ戻っていく。
窓の外。
遠く、銀座の方角から、低い地鳴りが響いた気がした。
いや、気のせいか。
葵はそっと自分の指を握りしめる。
紅い線は、もう消えていた。
だが、胸の奥で、何かが……脈打っている。
ゆっくりと、
深く、
東京の地下を這うように。
菊乃が、縁側から静かに葵を見ていた。
「おばあちゃん……おはようございます」
葵が振り返ると、菊乃は穏やかに微笑む。
だが、その目は、
どこか遠くを見据えていた。
「葵。今日も、街へ出るのかい?」
「はい。麗子さんと約束があるんです。銀座のカフェーで、新しいモガの帽子を見に行くって♪」
「……そうか。気をつけなさい」
菊乃の声は、いつもより少しだけ低かった。
葵は明るく「はいっ!」と返事をする。
だが、背中を向けた瞬間、
再び指先が、微かに震えた。
外へ出る。
路地を抜けると、
瓦斯灯の残り火が、朝の光に溶けていく。
その影が、
一瞬だけ、
長く伸びて、
葵の足元を這うように動いた。
……脈動は、
まだ、始まったばかり。




