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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第4章「瓦斯灯の揺らぎ」
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第8話 深まる疼き

青葉家の和菓子屋「青葉堂」は、今日も穏やかな午後を迎えていた。

店先には水ようかんが涼しげに並び、父・茂が客と楽しげに話している。

暖簾の向こうから、羊羹を切る包丁の音がリズミカルに響く。

みーちゃんはカウンターの隅で丸くなり、時折尻尾をぴくりと動かす。

葵は裏の作業場で、父を手伝っていた。

銘仙の袖をたくし上げ、丁寧に小豆を煮詰めている。

普段なら、この時間が一番好きだった。

甘い香りと、父の優しい笑顔に、心が溶けるような。

「お父様、今日の羊羹も完璧ですわね。

ふふっ、黒糖の香りが強くて、とっても贅沢ですの」

茂は照れくさそうに頰を掻いた。

「葵ちゃんが手伝ってくれるからだよ。

最近、なんだか元気がないみたいだけど……大丈夫か?」

葵の指が、一瞬止まった。

「……えへへ、大丈夫ですわ。

ただ、少し疲れちゃっただけかも。

あらあら〜、お父様ったら心配性ですのね」

葵はいつもの笑顔を浮かべ、煮えた小豆を鍋から移す。

だが、胸の奥で、何かが疼いていた。

金色の瞳が、ほんの一瞬、冷たく光る。

それは、抑えきれない予兆だった。

夕方近く、葵は一人で二階の部屋に戻った。

窓辺に座り、銀座の方角を眺める。

遠くで瓦斯灯の準備が始まり、橙色の光が点り始める。

その光が、昨日より少しだけ、揺らぎが強いように見えた。

葵は静かに目を閉じた。

胸の奥で、血がざわつく。

渡辺家の滅び、菊乃の伝説、海底の影、モガたちの溜息……

すべてが、繋がり始めている。

東京の闇が、根を伸ばし、葵の血脈を試そうとしている。

「――まだ、抑えられる」

葵は小さく呟き、九字を切る仕草をした。

光の針が、指先から一瞬だけ生まれては消える。

だが、その光は、いつもより弱く、すぐに霧散した。

疼きが、深まっている。

麗子は今日は近所の知り合いを訪ねに出かけ、みーちゃんだけが部屋の隅で葵を見守っていた。

猫の瞳が、静かに葵を映す。

みーちゃんの耳が、ぴくりと立つ。

尻尾の動きが、速くなる。

葵はみーちゃんを抱き上げ、頰を寄せた。

「みーちゃん……ごめんね。

最近、戦う回数が増えて、お留守番ばっかりで」

みーちゃんは小さく喉を鳴らし、葵の首に頭をすりつける。

温かさが、ほんの少しだけ疼きを和らげた。

そこへ、階段を上る足音。

菊乃だった。

「おばあ様……」

菊乃は葵の顔を見て、静かに座った。

「疼きが、強くなっておるな」

葵は頷き、目を伏せる。

「……はい。

金色の瞳が、勝手に光るようになって……

決壊が、近づいている気がしますわ」

菊乃は葵の手を取り、皺だらけの掌で包んだ。

「血は、嘘をつかん。

渡辺家が滅んだ時と同じ兆候じゃ。

東京の闇の本体が、動き出した。

お前の中の冷たい部分が、目覚めようとしておる」

葵はゆっくり息を吐いた。

「あらあら〜……怖いですわね。

でも、逃げたくありませんの。

お父様も、おばあ様も、麗子ちゃんも……

守りたいんです」

菊乃は優しく微笑んだ。

「それでいい。

疼きは、試練じゃ。

耐え抜けば、お前はもっと強くなる。

だが、無理はするな。

日常を、失うな」

葵は頷き、いつもの笑みを浮かべた。

「ふふっ……ありがとうございます、おばあ様。

えへへ、今日はお父様の焼きたて羊羹、たくさん食べましょうか?

みーちゃんも、一緒に♪」

菊乃も小さく笑い、立ち上がった。

「そうじゃな。

甘いもので、心を繋ぎ止めなさい」

二人は部屋を出た。

下から、茂の声が響く。

「葵ちゃん、菊乃さん!

夕飯できたよ〜!

今日は特別に、水ようかんもたくさんあるぞ!」

葵は階段を下りながら、胸の疼きをそっと抑えた。

けれど、それは静かに、確実に深まっていた。

東京そのものを、飲み込もうとしている。


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