第6話 菊乃の伝説
夕暮れの青葉家は、いつものように穏やかだった。
父・茂が店を閉め、裏庭で水を撒いている音が聞こえる。
みーちゃんは縁側で日向ぼっこをし、尻尾をゆったり振っていた。
葵は菊乃の部屋に呼ばれ、静かに座っていた。
障子が閉められ、部屋の中は少し薄暗い。
ちゃぶ台の上に、古い桐箱が置かれている。
菊乃はゆっくりと箱の蓋を開け、中から一枚の古い写真を取り出した。
「これを見なさい、葵」
写真には、若い頃の菊乃が写っていた。
まだ黒髪を長く結い、銘仙の着物に身を包み、腰に小さな刀を差している。
隣には、見知らぬ男性――渡辺清隆の若い姿。
二人は並んで立ち、背景は横浜の港。
波止場の瓦斯灯が、ぼんやりと光っている。
「あらあら〜……おばあ様、こんなお若い頃の写真、初めて見ましたわ。
この方は……渡辺清隆さん?」
菊乃は小さく頷いた。
「そうじゃ。
大正の初め頃じゃったな。
まだ二十代半ばの頃じゃ。
あの頃、東京と横浜の境で、大きな穢れが蠢き始めた。
『海底の裂け目』から、異界の悪魔が這い上がろうとしておった」
葵は息を潜めて聴く。
菊乃の声は、静かだが、どこか遠い記憶を辿るように響く。
「わしと清隆は、そこで初めて共に戦った。
奴らは『潮の影』と呼ばれた。
海水が黒く染まり、波が肉の塊のように蠢き、人を飲み込む。
一晩で数十人が消えた。
わしは浄界七曜陣を張り、清隆は鬼切の刃で影を断ち続けた」
菊乃の指が、写真の端をそっとなぞる。
「夜明け近く、最後の影が残った。
それは巨大なものじゃった。
海面を覆う黒い霧が、人の形になり、口を開いて叫ぶ。
『東京を飲み込む……根の深いものが……』
清隆が叫んだ。
『菊乃、陣を!』
わしは七曜陣を最大に展開し、清隆は刀を振り上げた」
葵の瞳が、少し揺れる。
「……それで、どうなったんですの?」
「封じた。
だが、代償は大きかった。
清隆の右腕が、影に食われかけた。
わしが紅蓮浄化で焼き払ったが、傷は深く、寿命を削った。
清隆は笑って言った。
『これで東京は、もう少し守れるな』
それが、最後に会った時じゃ」
菊乃は写真を箱に戻し、蓋を閉めた。
「その後、わしは退魔の最前線から少し引いた。
菫に継がせ、お前に継がせようとした。
だが、闇は止まらん。
渡辺家が滅んだ今、残されたのは青葉家だけじゃ」
葵は静かに手を合わせた。
「おばあ様……あの時の清隆さんの言葉。
『東京を飲み込む』……
今、私たちが感じている予感と同じですね」
菊乃は葵の目を見つめ、ゆっくり言った。
「同じじゃ。
根の深いものが、目覚めようとしている。
お前の中の金色の瞳は、それを待っておる。
決壊の時が来たら、冷たく、容赦なく斬れ。
それがお前の血脈じゃ」
葵は深く息を吸い、いつもの笑みを浮かべた。
「ふふっ……わかりましたわ、おばあ様。
でも、今はまだ、日常を大切にしますの。
えへへ、お父様の夕飯の支度、手伝いに行きましょうか?
水ようかんも、たくさん作ってくださるそうですわ♪」
菊乃は珍しく、優しく笑った。
「そうじゃな。
甘いもので、心を休めなさい。
戦いは、まだ始まっておらん」
二人は部屋を出た。
外では、茂が「葵ちゃん、菊乃さん、夕飯できたよ〜!」と呼ぶ声が響く。
みーちゃんが目を覚まし、のんびりと伸びをする。
けれど、葵の胸の奥で、菊乃の伝説は静かに息づいていた。
海底の裂け目から這い上がる影。
渡辺家の滅び。
そして、次に来るもの。
それは、もっと深く広い。




