第4話 影の遊戯
夜の銀座は、いつもより少し静かだった。
瓦斯灯の橙色の光が、煉瓦の道に柔らかな輪郭を描く。
通りを歩く人影はまばらで、遠くから蓄音機の音が漏れてくるだけ。
葵と麗子は、買い物帰りにこの道を選んだ。
新しい銘仙の反物を抱え、二人とも少し上機嫌だった。
「あらあら〜、今日はいいものが買えましたわね。
麗子ちゃんに似合う色ですのよ。
ふふっ、着てみたらきっと可愛いですわ♪」
葵が反物の包みを軽く振ると、麗子は頰を緩めた。
「ありがとうございます、葵さん。
狐の頃は、こんな布を着る機会なんてなかったから……
今は、嬉しいです」
二人は瓦斯灯の下をくぐり抜ける。
炎がゆらりと揺れ、影が長く伸びる。
その影は、足元で静かに揺れていた――はずだった。
突然、麗子の足が止まった。
「……葵さん」
「え?」
麗子が指差した先。
自分の影が、地面から少し浮いている。
いや、浮いているのではない。
ゆっくりと、独立して動いていた。
葵の影も、同じだった。
二人の影が、まるで別の生き物のように、瓦斯灯の光の下で蠢き始める。
人形のような輪郭が、首を傾げ、手を伸ばす。
指先が、地面を這うように伸びてくる。
「あらあら〜……これは」
葵の声はまだ柔らかかった。
だが、金色の瞳が、ほんの一瞬、鋭く光った。
影は遊び始めた。
通りを歩く通行人の影を、真似て踊る。
一人のモガの影が、突然長く伸び、彼女の足を絡め取ろうとする。
女性が悲鳴を上げ、転びそうになる。
影は笑うように、くねくねと身をよじる。
麗子が葵の袖を掴んだ。
「これ……瓦斯灯の影が、独立して……
東京の闇が、こんな形で」
葵は静かに頷き、反物の包みを麗子に預けた。
「麗子ちゃん、ここにいてくださいね。
すぐ終わりますわ」
次の瞬間――葵の表情が変わった。
金色の瞳が、無表情に冷たく輝く。
口元に、薄い微笑みが浮かぶ。
それは、優しい笑顔とは違う。
冷たい、宣告するような微笑み。
「――遊戯は、ここまで」
葵は九字を切る。
指先が空を切り、護身の印を結ぶ。
空気が震え、光の針が無音で生まれる。
影の一つが、葵に向かって飛びかかる。
長い指が、彼女の首を狙う。
だが、光針が影を貫いた。
ずしゅっ……という、肉が裂けるような音。
影は悲鳴のようなうねりを上げ、黒い霧となって散る。
骨が砕けるような、乾いた音が響く。
影の核が、溶けるように崩壊する。
もう一つの影が、通行人を襲おうとする。
葵は低く、抑揚のない声で宣告した。
「浄界七曜陣――展開」
地面に七つの光の星が浮かぶ。
影がその中に閉じ込められ、身動きが取れなくなる。
葵の指が、ゆっくりと握りつぶす仕草をする。
圧縮封魔・五芒星崩壊。
影が、内部から圧縮されていく。
肉が潰れる音、骨が粉々になる音、絶望の悲鳴。
すべてが、黒い塊となって縮小し、最後にぱちんと弾けるように消えた。
残った影は、怯えたように後退する。
葵は一歩踏み出し、最後の一撃を放つ。
「沸魂業湯・紅蓮浄化」
赤い炎が、影を包む。
溶ける音、焼ける音、肉が炭化する音。
影は最後の悲鳴を上げ、完全に消滅した。
――戦いは、十数秒で終わった。
葵の瞳が、元に戻る。
金色が、優しい青に戻る。
表情が、冷たい微笑みから、いつもの柔らかな笑顔へ。
5秒以内。
「あらあら〜、びっくりしましたわね。
ふふっ、麗子ちゃん、大丈夫?」
葵は反物の包みを麗子から受け取り、優しく微笑んだ。
麗子は息を吐き、頷く。
「……はい。葵さん、ありがとうございます」
通行人たちは、突然の異変に驚きながらも、何が起きたのかわからず立ち尽くす。
影はもう、ただの影に戻っていた。
瓦斯灯の光が、再び穏やかに揺れる。
葵は麗子の手を引き、歩き出す。
「えへへ、おうちに帰りましょうか。
お父様の羊羹、焼きたてがあるんですの♪
麗子ちゃんも、一緒に食べましょうね」
いつもの声。
いつもの笑顔。
けれど、胸の奥で、葵は感じていた。
――これは、ただの序章。
影の遊戯は、まだ始まったばかり。
次にくるものは、もっと深く広く。
すぐそこまで、来ている。




