第3話 蓄音機の調べ
青葉家の居間は、夕暮れの柔らかな光に包まれていた。
父・茂が仕事から戻り、いつものように台所で夕飯の支度をしている。
羊羹の甘い香りが、まだ店から漂ってくる。
みーちゃんはちゃぶ台の隅で丸くなり、のんびりと毛づくろい。
葵と麗子は、二階の葵の部屋でくつろいでいた。
窓辺に置かれた小さな蓄音機が、今日の主役だ。
麗子が人間に戻ってから初めて持ってきたもの。
古い木製の箱に、金色の喇叭が優雅に広がっている。
「麗子ちゃん、これ素敵ですわね。
ふふっ、こんな立派な蓄音機、初めて見ましたわ」
葵はそっと針を落とす準備をしながら、目を輝かせた。
麗子は少し恥ずかしそうに、レコードの袋から一枚を取り出す。
「狐の頃、銀座の裏通りで拾ったんです。
人間の音楽が、こんなに綺麗に聞こえるなんて知らなくて……
今は、ただ聴きたくて」
レコードのラベルには、懐かしい文字。
「カチューシャの唄」――大正の初め頃に大流行した、あの曲だ。
針を落とすと、かすかな針の音のあと、優しいメロディーが流れ始めた。
♪ かちゅーしゃかわいや 別れの涙が……
松井須磨子の声が、部屋に満ちる。
少し古びた音質が、かえって温かく感じられた。
葵は目を閉じて、静かに耳を傾けた。
「あらあら〜……とっても切ないですわね。
でも、心がふわっとするような……
えへへ、こんな素敵な曲を一緒に聴けるなんて、幸せですわ」
麗子も隣に座り、膝を抱えて聴いている。
狐の記憶が、かすかに疼く。
人間の悲しみや喜びを、こんな音で感じるなんて、初めてのことだった。
曲が終わると、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
葵が次のレコードを選ぶ。
今度は「ゴンドラの唄」。
中山晋平のメロディーが、ゆったりと部屋を包む。
♪ いのち短し 恋せよ乙女……
麗子がぽつりと呟いた。
「人間って、こんなに儚いことを歌うんですね。
狐の頃は、ただ生き延びることしか考えていませんでした」
葵は優しく麗子の肩に手を置く。
「ふふっ、そうですね。
でも、それが人間の素敵なところかも。
短いからこそ、大切にしたいって思うんですの」
二人はそのまま、何枚かレコードをかけ続けた。
「枯れすすき」や「船頭小唄」の調べが、部屋に優しく響く。
外はすっかり暗くなり、窓から瓦斯灯の橙色の光が差し込んでくる。
だが、その時――。
蓄音機の針が、次の曲に移った瞬間。
音が、わずかに歪んだ。
最初は気のせいかと思った。
しかし、次第にメロディーの端が、奇妙に伸びる。
低く、うねるようなノイズが混じり始めた。
「……麗子ちゃん?」
葵の声が、少し低くなる。
麗子も気づき、瞳を細めた。
「これは……ただの針の音じゃない」
曲は「宵待草」のメロディーだったはず。
なのに、歌声の裏から、何かが囁くように聞こえてくる。
言葉ではない。
ただ、冷たい風のような、闇の息遣い。
葵は静かに立ち上がり、蓄音機に近づいた。
針をそっと持ち上げる。
音が止まる。
部屋は静寂に包まれた。
「……あらあら〜。
針が少しずれちゃったのかしら?
ふふっ、機械って気難しいですわね」
葵はいつもの笑顔で言った。
だが、手のひらに、ほんのわずかな冷たさが残っていた。
麗子は窓の外を見た。
瓦斯灯の光が、また少し揺れている。
昨日より、わずかに。
だが、確かに。
みーちゃんが、ぴくりと耳を立て、尻尾をぴんと張った。
葵は深く息を吐き、レコードを丁寧に袋に戻した。
「今日はもうおしまいですわね。
麗子ちゃん、お腹すいたかしら?
お父様の羊羹、焼きたてがあるんですの♪」
いつもの柔らかな声。
いつもの優しい笑み。
けれど、二人の胸の奥で、小さなざわめきが広がっていた。
調べは、ただの調べではない。
闇が、音に乗って忍び寄り始めている。
次にくるものは、もっと深く広く。
すぐそこまで、来ている。




