第2話 羊羹と手紙
青葉家の小さな和菓子屋「青葉堂」は、今日も朝から甘い香りに満ちていた。
店先の暖簾をくぐると、父・茂がいつものように丁寧に羊羹を切り分けている。
竹の皮に包まれた水ようかんが並び、夏の名残を思わせる涼しげな青が目に優しい。
「あらあら〜、お父様ったら今日も早起きですわね。
ふふっ、もうお客さんが来ちゃう時間ですよ?」
葵は銘仙の袖を軽く払いながら、店に入る。
腰に巻いた帯の結び目が少し緩んでいるのを直し、笑顔で父に近づいた。
「おはよう、葵ちゃん。
いやあ、今日はちょっと張り切っちゃってね。
新しい羊羹の試作が上手くいったんだよ。
黒糖と小豆のバランスが絶妙でさ」
茂は照れくさそうに頰を掻きながら、試食用に切った一片を葵に差し出す。
葵はぱくりと口に運び、目を細めた。
「ん〜……! とっても美味しいですわ。
お父様の羊羹は、いつも心まで温かくなりますの。
えへへ、これならお客さんも喜びますわね♪」
店内には三毛猫のみーちゃんが、いつもの定位置であるカウンターの隅で丸くなっている。
尻尾の先がゆらゆらと揺れ、穏やかな朝を象徴するように。
そこへ、裏口から麗子が顔を出した。
人間に戻ってからまだ日が浅い彼女は、葵の古い着物を借りて過ごしている。
狐の耳も尾もすっかり消え、ただ少しだけ鋭い瞳が、昔の面影を残していた。
「おはようございます、葵さん。お義父さん」
「麗子ちゃん、おはよう。
もう起きてたの?
あらあら〜、髪が少し乱れてるわよ。
後で結ってあげましょうか?」
葵は自然に麗子の髪を指で梳き、優しく微笑む。
麗子は少し頰を赤らめながら、頷いた。
「ありがとうございます……。まだ慣れなくて」
そんな穏やかな朝のひとときを、郵便配達の音が破った。
「青葉さん、お手紙ですよ〜!」
若い配達員が、息を切らしながら封書を差し出す。
差出人は――母・菫。
葵の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……お母様から」
封を切ると、母の几帳面な筆跡が目に飛び込んでくる。
いつもより墨の濃さが濃く、文字が少し震えているように見えた。
葵は店の一番奥、父の作業台の陰に腰を下ろし、手紙を広げた。
『葵へ
久しぶりの手紙になるけれど、急ぎの知らせです。
横浜の渡辺家をご存じでしょう。
あの家も、私たちと同じく古くから退魔を家業としてきた一族です。
代々、異界の穢れを封じてきた名門でした。
ところが、先月半ばのこと。
渡辺家の屋敷が、一夜にして壊滅したとの報せが入りました。
生き残った者は一人もいません。
屋敷の跡地は、今も黒い霧のようなものが立ち込め、近づく者すら寄せ付けないそうです。
原因は、はっきりしません。
ただ、渡辺家の当主が最後に残した言葉が伝わってきました。
「東京の闇が、ついに動き出した。
根の深いものが、目覚めようとしている」
葵、あの頃から感じていた予感が、現実のものになりつつあります。
決して油断しないで。
どんな小さな異変も、見逃さないで。
あなたはまだ若い。
けれど、血は嘘をつきません。
どうか、菊乃おばあ様とよく相談して。
麗子さんのことも、守ってあげて。
母より』
葵は手紙をゆっくりと畳んだ。
胸の奥で、何かがざわつく。
けれど、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべたまま。
「……ふふっ、お母様ったら。
相変わらず心配性ですわね」
立ち上がり、父の方へ向き直る。
茂は羊羹を切りながら、娘の様子をちらりと見た。
「どうした、葵ちゃん。お母さんから何か?」
「ええ、ちょっとした近況報告ですの。
横浜のお知り合いのお宅が大変だったとか……
でも、大丈夫ですわ。お母様がちゃんと見てくださってるんですもの」
葵はそう言って、試食用の羊羹をもう一片つまみ、口に運んだ。
甘さが、ほんの少しだけ重く感じられた。
みーちゃんが、ぴくりと耳を立てる。
尻尾の動きが、わずかに速くなった。
外では、銀座の方角からかすかな汽笛の音が聞こえてくる。
瓦斯灯の準備をする男たちの声が、遠くに響いていた。
葵は静かに息を吐き、手紙を懐にしまった。
「あらあら〜、今日はお昼から麗子ちゃんと一緒に買い物に行きましょうか?
新しい銘仙の反物、見てみたいですわ♪」
いつもの声。
いつもの笑顔。
けれど、心の底で、小さな波紋が広がり始めていた。
そして、ここに一つの古い血脈の物語が、静かに語られる。
渡辺家は、平安の昔に遡る。
源頼光四天王の筆頭、渡辺綱の末裔として生まれた家系だ。
羅生門の鬼の腕を斬り、一条戻橋で茨木童子の腕を名刀「髭切」で断ち切った伝説の武将。
その血は、鬼・妖怪・怨霊を祓う者として、代々受け継がれてきた。
鎌倉の頃から、渡辺党と呼ばれ、関東の地で異界の穢れを封じてきた。
江戸時代には、横浜の海路を守る役目を負い、外来の闇が流れ込む港を監視し続けた。
明治以降も変わらず、ハイカラの世に現れる新しい穢れ――瓦斯灯の影や、蓄音機から漏れる呪音――を、刀剣と術で切り裂いてきた。
家訓は「鬼の腕を斬る刃は、決して折れぬ。
血は穢れを洗い流す」。
代々継承されるのは、鬼切安綱の写しともいわれる一振りの刀。
そして「鬼灯」という赤い提灯型の霊獣。
それは闇を照らし、敵の弱点を暴く存在だった。
だが、その血の代償は重い。
鬼を斬るたび、己の寿命を削る呪いが、代々受け継がれていた。
青葉家とは、古くから協力関係にあった。
東京の都市を青葉家が、横浜の港を渡辺家が、分担して守ってきたのだ。
今、その渡辺家は消えた。
一夜にして。
黒い霧に飲み込まれ、跡形もなく。
当主・渡辺清隆が最期に残した言葉は、
「東京の闇が、ついに動き出した。
根の深いものが、目覚めようとしている」
それは、青葉家への警告でもあった。
次にくるものは、もっと深く広く。
すぐそこまで、来ている。




