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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第4章「瓦斯灯の揺らぎ」
32/79

第2話 羊羹と手紙

挿絵(By みてみん)

青葉家の小さな和菓子屋「青葉堂」は、今日も朝から甘い香りに満ちていた。

店先の暖簾をくぐると、父・茂がいつものように丁寧に羊羹を切り分けている。

竹の皮に包まれた水ようかんが並び、夏の名残を思わせる涼しげな青が目に優しい。

「あらあら〜、お父様ったら今日も早起きですわね。

ふふっ、もうお客さんが来ちゃう時間ですよ?」

葵は銘仙の袖を軽く払いながら、店に入る。

腰に巻いた帯の結び目が少し緩んでいるのを直し、笑顔で父に近づいた。

「おはよう、葵ちゃん。

いやあ、今日はちょっと張り切っちゃってね。

新しい羊羹の試作が上手くいったんだよ。

黒糖と小豆のバランスが絶妙でさ」

茂は照れくさそうに頰を掻きながら、試食用に切った一片を葵に差し出す。

葵はぱくりと口に運び、目を細めた。

「ん〜……! とっても美味しいですわ。

お父様の羊羹は、いつも心まで温かくなりますの。

えへへ、これならお客さんも喜びますわね♪」

店内には三毛猫のみーちゃんが、いつもの定位置であるカウンターの隅で丸くなっている。

尻尾の先がゆらゆらと揺れ、穏やかな朝を象徴するように。

そこへ、裏口から麗子が顔を出した。

人間に戻ってからまだ日が浅い彼女は、葵の古い着物を借りて過ごしている。

狐の耳も尾もすっかり消え、ただ少しだけ鋭い瞳が、昔の面影を残していた。

「おはようございます、葵さん。お義父さん」

「麗子ちゃん、おはよう。

もう起きてたの?

あらあら〜、髪が少し乱れてるわよ。

後で結ってあげましょうか?」

葵は自然に麗子の髪を指で梳き、優しく微笑む。

麗子は少し頰を赤らめながら、頷いた。

「ありがとうございます……。まだ慣れなくて」

そんな穏やかな朝のひとときを、郵便配達の音が破った。

「青葉さん、お手紙ですよ〜!」

若い配達員が、息を切らしながら封書を差し出す。

差出人は――母・菫。

葵の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。

「……お母様から」

封を切ると、母の几帳面な筆跡が目に飛び込んでくる。

いつもより墨の濃さが濃く、文字が少し震えているように見えた。

葵は店の一番奥、父の作業台の陰に腰を下ろし、手紙を広げた。

『葵へ

久しぶりの手紙になるけれど、急ぎの知らせです。

横浜の渡辺家をご存じでしょう。

あの家も、私たちと同じく古くから退魔を家業としてきた一族です。

代々、異界の穢れを封じてきた名門でした。

ところが、先月半ばのこと。

渡辺家の屋敷が、一夜にして壊滅したとの報せが入りました。

生き残った者は一人もいません。

屋敷の跡地は、今も黒い霧のようなものが立ち込め、近づく者すら寄せ付けないそうです。

原因は、はっきりしません。

ただ、渡辺家の当主が最後に残した言葉が伝わってきました。

「東京の闇が、ついに動き出した。

根の深いものが、目覚めようとしている」

葵、あの頃から感じていた予感が、現実のものになりつつあります。

決して油断しないで。

どんな小さな異変も、見逃さないで。

あなたはまだ若い。

けれど、血は嘘をつきません。

どうか、菊乃おばあ様とよく相談して。

麗子さんのことも、守ってあげて。

母より』

葵は手紙をゆっくりと畳んだ。

胸の奥で、何かがざわつく。

けれど、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべたまま。

「……ふふっ、お母様ったら。

相変わらず心配性ですわね」

立ち上がり、父の方へ向き直る。

茂は羊羹を切りながら、娘の様子をちらりと見た。

「どうした、葵ちゃん。お母さんから何か?」

「ええ、ちょっとした近況報告ですの。

横浜のお知り合いのお宅が大変だったとか……

でも、大丈夫ですわ。お母様がちゃんと見てくださってるんですもの」

葵はそう言って、試食用の羊羹をもう一片つまみ、口に運んだ。

甘さが、ほんの少しだけ重く感じられた。

みーちゃんが、ぴくりと耳を立てる。

尻尾の動きが、わずかに速くなった。

外では、銀座の方角からかすかな汽笛の音が聞こえてくる。

瓦斯灯の準備をする男たちの声が、遠くに響いていた。

葵は静かに息を吐き、手紙を懐にしまった。

「あらあら〜、今日はお昼から麗子ちゃんと一緒に買い物に行きましょうか?

新しい銘仙の反物、見てみたいですわ♪」

いつもの声。

いつもの笑顔。

けれど、心の底で、小さな波紋が広がり始めていた。

そして、ここに一つの古い血脈の物語が、静かに語られる。

渡辺家は、平安の昔に遡る。

源頼光四天王の筆頭、渡辺綱の末裔として生まれた家系だ。

羅生門の鬼の腕を斬り、一条戻橋で茨木童子の腕を名刀「髭切」で断ち切った伝説の武将。

その血は、鬼・妖怪・怨霊を祓う者として、代々受け継がれてきた。

鎌倉の頃から、渡辺党と呼ばれ、関東の地で異界の穢れを封じてきた。

江戸時代には、横浜の海路を守る役目を負い、外来の闇が流れ込む港を監視し続けた。

明治以降も変わらず、ハイカラの世に現れる新しい穢れ――瓦斯灯の影や、蓄音機から漏れる呪音――を、刀剣と術で切り裂いてきた。

家訓は「鬼の腕を斬る刃は、決して折れぬ。

血は穢れを洗い流す」。

代々継承されるのは、鬼切安綱の写しともいわれる一振りの刀。

そして「鬼灯」という赤い提灯型の霊獣。

それは闇を照らし、敵の弱点を暴く存在だった。

だが、その血の代償は重い。

鬼を斬るたび、己の寿命を削る呪いが、代々受け継がれていた。

青葉家とは、古くから協力関係にあった。

東京の都市を青葉家が、横浜の港を渡辺家が、分担して守ってきたのだ。

今、その渡辺家は消えた。

一夜にして。

黒い霧に飲み込まれ、跡形もなく。

当主・渡辺清隆が最期に残した言葉は、

「東京の闇が、ついに動き出した。

根の深いものが、目覚めようとしている」


それは、青葉家への警告でもあった。

次にくるものは、もっと深く広く。

すぐそこまで、来ている。




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