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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第4章「瓦斯灯の揺らぎ」
31/79

第1話 瓦斯灯の下で

挿絵(By みてみん)


大正十一年の秋も深まる頃。

銀座の夜はまだ優しい光に包まれていた。

明治の文明開化を象徴した瓦斯灯が、今も通りを柔らかく照らす。

橙色の炎がゆらゆらと揺れ、煉瓦敷きの歩道に長い影を落とす。

遠くから聞こえる蓄音機の調べや、モガたちの軽やかな靴音が、夜の空気に溶け込んでいく。

青葉葵は、麗子と並んで銀座の通りをゆっくり歩いていた。

銘仙の着物に薄手の羽織を重ね、帯の結び目を少し緩めに結んでいる。

麗子は葵から借りた古い紺の袴に、シンプルなブラウスを合わせ、髪を短めに結んでいた。

狐の面影はもうすっかり消え、ただ瞳の奥に残る鋭さが、時折街灯の光に映えるだけ。

「あらあら〜、麗子ちゃんったら。こんなに夜更かしして大丈夫かしら?

ふふっ、でも銀座の夜は素敵ですわね。瓦斯灯の光が、なんだかお月様みたい」

葵は立ち止まり、頭上の瓦斯灯を見上げて微笑んだ。

炎が小さく揺れるたび、ガラスの傘がきらりと光を反射する。

通りをゆく人々の顔を、優しく、しかしどこか儚く照らしていた。

麗子は少し照れくさそうに頰を緩めた。

「ええ……。人間の街の夜って、こんなに明るいんですね。

狐の頃は、いつも影に隠れてばかりでしたから」

二人は並んで歩き、銀座の裏通りへ入る。

そこに小さなカフェー「ル・プランタン」の支店があった。

ガラス窓から漏れる暖かな電灯と、かすかなジャズの音。

店先の黒板には「本日のスペシャル・コーヒー」とチョークで書かれている。

「あそこ、行きましょうか?

お母様が手紙で『銀座のカフェーは心を休めるのにいい』って書いてらしたんですの。

えへへ、麗子ちゃんも甘いものお好きですものね♪」

葵が軽く手を引き、店内へ。

木製のカウンターに並ぶ椅子、壁には小さな絵画が飾られ、テーブルには白いテーブルクロス。

モガらしい女性客が数人、煙草をくゆらせながらおしゃべりしている。

彼女たちのショートカットと赤い口紅が、店内の空気を少しだけ華やかにしていた。

二人は窓際の小さなテーブルに座った。

ウェイトレスがメニューを持ってくると、葵は目を輝かせた。

「水ようかんもありますわ!

あらあら〜、今日は贅沢しちゃおうかしら。麗子ちゃんは?」

「私……アイスクリームソーダを。

狐の頃は、冷たいものが苦手だったけど、今は好きです」

麗子が小さく笑う。

葵も「ふふっ、じゃあ同じにしましょうか」と注文した。

運ばれてきたソーダは、グラスにバニラのアイスが浮かび、シュワシュワと泡が立つ。

葵は長いスプーンでかき混ぜ、ひと口飲んで目を細めた。

「ん〜……冷たくて甘くて、とっても幸せですわ。

麗子ちゃんも、どうぞ」

麗子がそっとグラスに口をつける。

炭酸の刺激に少し目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、葵さん。……本当に、温かいですね。ここにいると」

二人はしばらく他愛もない話をした。

麗子の人間としての新しい日常、葵の父・茂の和菓子屋の近況、みーちゃんの最近のいたずら。

カフェーのBGMが優しく流れ、瓦斯灯の外光が窓から差し込んで、テーブルの上に淡い影を作る。

だが、その時――。

麗子がふとグラスを置いた。

瞳がわずかに細くなる。

「……葵さん」

「え?」

「外の……瓦斯灯が」

葵が窓の外を見た。

銀座の通りを照らす瓦斯灯の列。

その一つが、ほんの少しだけ、不自然に揺れていた。

炎が普段より長く伸び、影が奇妙に歪んでいるように見える。

みーちゃんは今日はお留守番だったが、葵の胸の奥で、何かが小さくざわついた。

「……あらあら〜。風が強いのかしら?」

葵は笑顔のまま言ったが、手元のスプーンを握る指に、わずかな力がこもっていた。

麗子は静かに頷き、視線を外さない。

「いえ……これは、風じゃない」

二人は顔を見合わせた。

カフェーの中は変わらず賑やかで、モガたちの笑い声が響く。

だが、外の瓦斯灯の光だけが、ほんの少し、冷たく感じられた。

葵はゆっくり息を吐き、いつもの柔らかな声で言った。

「ふふっ、今日はもう帰りましょうか。

麗子ちゃん、お腹すいたかしら?

おうちで羊羹でも焼こうかしら♪」

立ち上がり、会計を済ませる。

店を出ると、瓦斯灯の揺らぎはもう収まっていた。

通りは再び穏やかな橙色の光に満ち、夜の銀座が優しく二人を迎える。

けれど、心の底で、葵は知っていた。

次にくるものは、もっと深く広いことを。


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