第1話 瓦斯灯の下で
大正十一年の秋も深まる頃。
銀座の夜はまだ優しい光に包まれていた。
明治の文明開化を象徴した瓦斯灯が、今も通りを柔らかく照らす。
橙色の炎がゆらゆらと揺れ、煉瓦敷きの歩道に長い影を落とす。
遠くから聞こえる蓄音機の調べや、モガたちの軽やかな靴音が、夜の空気に溶け込んでいく。
青葉葵は、麗子と並んで銀座の通りをゆっくり歩いていた。
銘仙の着物に薄手の羽織を重ね、帯の結び目を少し緩めに結んでいる。
麗子は葵から借りた古い紺の袴に、シンプルなブラウスを合わせ、髪を短めに結んでいた。
狐の面影はもうすっかり消え、ただ瞳の奥に残る鋭さが、時折街灯の光に映えるだけ。
「あらあら〜、麗子ちゃんったら。こんなに夜更かしして大丈夫かしら?
ふふっ、でも銀座の夜は素敵ですわね。瓦斯灯の光が、なんだかお月様みたい」
葵は立ち止まり、頭上の瓦斯灯を見上げて微笑んだ。
炎が小さく揺れるたび、ガラスの傘がきらりと光を反射する。
通りをゆく人々の顔を、優しく、しかしどこか儚く照らしていた。
麗子は少し照れくさそうに頰を緩めた。
「ええ……。人間の街の夜って、こんなに明るいんですね。
狐の頃は、いつも影に隠れてばかりでしたから」
二人は並んで歩き、銀座の裏通りへ入る。
そこに小さなカフェー「ル・プランタン」の支店があった。
ガラス窓から漏れる暖かな電灯と、かすかなジャズの音。
店先の黒板には「本日のスペシャル・コーヒー」とチョークで書かれている。
「あそこ、行きましょうか?
お母様が手紙で『銀座のカフェーは心を休めるのにいい』って書いてらしたんですの。
えへへ、麗子ちゃんも甘いものお好きですものね♪」
葵が軽く手を引き、店内へ。
木製のカウンターに並ぶ椅子、壁には小さな絵画が飾られ、テーブルには白いテーブルクロス。
モガらしい女性客が数人、煙草をくゆらせながらおしゃべりしている。
彼女たちのショートカットと赤い口紅が、店内の空気を少しだけ華やかにしていた。
二人は窓際の小さなテーブルに座った。
ウェイトレスがメニューを持ってくると、葵は目を輝かせた。
「水ようかんもありますわ!
あらあら〜、今日は贅沢しちゃおうかしら。麗子ちゃんは?」
「私……アイスクリームソーダを。
狐の頃は、冷たいものが苦手だったけど、今は好きです」
麗子が小さく笑う。
葵も「ふふっ、じゃあ同じにしましょうか」と注文した。
運ばれてきたソーダは、グラスにバニラのアイスが浮かび、シュワシュワと泡が立つ。
葵は長いスプーンでかき混ぜ、ひと口飲んで目を細めた。
「ん〜……冷たくて甘くて、とっても幸せですわ。
麗子ちゃんも、どうぞ」
麗子がそっとグラスに口をつける。
炭酸の刺激に少し目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、葵さん。……本当に、温かいですね。ここにいると」
二人はしばらく他愛もない話をした。
麗子の人間としての新しい日常、葵の父・茂の和菓子屋の近況、みーちゃんの最近のいたずら。
カフェーのBGMが優しく流れ、瓦斯灯の外光が窓から差し込んで、テーブルの上に淡い影を作る。
だが、その時――。
麗子がふとグラスを置いた。
瞳がわずかに細くなる。
「……葵さん」
「え?」
「外の……瓦斯灯が」
葵が窓の外を見た。
銀座の通りを照らす瓦斯灯の列。
その一つが、ほんの少しだけ、不自然に揺れていた。
炎が普段より長く伸び、影が奇妙に歪んでいるように見える。
みーちゃんは今日はお留守番だったが、葵の胸の奥で、何かが小さくざわついた。
「……あらあら〜。風が強いのかしら?」
葵は笑顔のまま言ったが、手元のスプーンを握る指に、わずかな力がこもっていた。
麗子は静かに頷き、視線を外さない。
「いえ……これは、風じゃない」
二人は顔を見合わせた。
カフェーの中は変わらず賑やかで、モガたちの笑い声が響く。
だが、外の瓦斯灯の光だけが、ほんの少し、冷たく感じられた。
葵はゆっくり息を吐き、いつもの柔らかな声で言った。
「ふふっ、今日はもう帰りましょうか。
麗子ちゃん、お腹すいたかしら?
おうちで羊羹でも焼こうかしら♪」
立ち上がり、会計を済ませる。
店を出ると、瓦斯灯の揺らぎはもう収まっていた。
通りは再び穏やかな橙色の光に満ち、夜の銀座が優しく二人を迎える。
けれど、心の底で、葵は知っていた。
次にくるものは、もっと深く広いことを。




