第8話「麗子の涙」
浅草の夜は、まだざわめきを残していた。
寄席「金龍亭」の座敷は、浄界七曜陣の光が消えた後も、薄い煙のようなものが漂っている。
倒れ込んだ客たちは、ゆっくりと意識を取り戻し始めていた。
誰かが「…何が起きたの?」と呟き、誰かが自分の腕の掻き傷に気づいて小さく悲鳴を上げる。
だが、誰も死んではいない。
欲望の蝕みは、紅蓮の炎に焼き払われた。
葵は舞台の上で、麗子を抱きしめたまま動かない。
麗子の体は、狐の影が抜けた後、急に小さく、軽くなった。
黒いドレスが、どこかだぶついて見える。
短い髪は乱れ、口紅は涙で滲んでいる。
「……私……」
麗子の声は、震えていた。
人間の声に戻っている。
金色の残滓は、瞳の奥にわずかに残るだけだ。
葵はそっと麗子の背中を撫でる。
戦闘の冷たい指先は、もうない。
いつもの、優しく温かい手。
「あらあら……泣かないで、麗子さん。
もう、大丈夫ですわ」
麗子は葵の胸に顔を埋め、肩を震わせる。
「私……ただ、変わりたかっただけなのに……
重い着物が嫌で、長い髪が嫌で、毎日同じ顔でいるのが嫌で……
誰も振り向いてくれない自分が、嫌で……」
言葉が、途切れ途切れに溢れ出す。
「麗子さんって、素敵な人だって、みんな言ってくれたの。
でも、私の中の私は、いつも足りなくて……
もっと綺麗に、もっと自由に、もっと羨ましがられる私に……
だから、レコードを聴いて……狐の囁きを聞いて……
気づいたら、もう私じゃなくなってた……」
麗子の指が、葵の着物の袖を強く握る。
爪が食い込み、痛いはずなのに、葵は動かない。
「怖かったの……
変わっていく自分が、怖くて……
でも、止まれなくて……
みんなを巻き込んで……こんなことに……」
涙が、葵の胸元を濡らす。
熱い、塩辛い、人間の涙。
葵は麗子の髪を優しく梳きながら、静かに言う。
「ふふっ……変わりたいって思うこと、悪いことじゃないんですよ。
新しい服を着てみたい、新しい髪型をしてみたい、新しい自分に出会いたい……
それは、誰だって持ってる気持ちですわ」
麗子は顔を上げ、葵を見る。
瞳に、金色の残光が揺れている。
「でも……私は、みんなを傷つけて……」
葵は首を振る。
「傷つけたのは、あなたじゃないんですの。
狐の穢れが、あなたの心の隙間を使って、増殖しただけ。
あなたは、ただ……寂しかったんですわね」
麗子の唇が震える。
「……寂しかった……
誰も、本当の私を見てくれなくて……
だから、輝く私になれば、みんな見てくれるって……」
葵は麗子の頰を両手で包む。
優しく、温かく。
「本当の麗子さんを、見てますわ。
今、ここで。
泣いてる麗子さんも、怖がってる麗子さんも、全部……見てます」
麗子の瞳から、最後の金色が、ぽたりと落ちるように消えた。
人間の、澄んだ瞳だけが残る。
「……ありがとう……葵さん……」
麗子は葵の胸に再び顔を埋め、静かに泣き続ける。
嗚咽が、徐々に小さくなる。
葵は麗子の背中を抱きしめながら、ふっと微笑む。
「えへへ……泣き止んだら、羊羹、食べましょうね。
お父様の特製、水ようかんもありますのよ♪」
麗子は小さく頷き、涙声で呟く。
「……食べたい……」
座敷の外では、客たちがゆっくり立ち上がり、互いに支え合いながら出口へ向かう。
誰も、はっきりとした記憶を持っていない。
ただ、「なんか、すごく綺麗な夢を見た気がする」と、誰かがぼんやり呟く。
葵は麗子を支えて立ち上がり、寄席の裏口へ向かう。
外の夜風が、涼しく頰を撫でる。
浅草の賑わいは、まだ続いている。
遠くで、別の蓄音機から歌謡曲が流れている。
葵は麗子の手を握り、静かに歩き出す。
「……今日は、疲れましたわね。
お家に帰って、ゆっくりお風呂にしましょう」
麗子は葵の手を握り返し、小さく頷く。
家に帰ると、みーちゃんが玄関で待っていた。
毛はもう逆立っていない。
ただ、じっと麗子を見つめ、鼻をひくひくさせる。
葵はみーちゃんを抱き上げ、麗子に紹介する。
「みーちゃん、今日はお留守番ありがとうね。
この子は、麗子さん。
これから、友達ですわ♪」
みーちゃんは「にゃあ」と小さく鳴き、麗子の足元にすり寄る。
麗子は驚いたように目を丸くし、そっと手を伸ばす。
「……可愛い……」
葵は二人(と一匹)を連れて、家の中へ入る。
外では、銀座の方角から、かすかなジャズの残響が、まだ聞こえるような気がした。
だが、それはもう、囁きではなく、ただの音楽に過ぎなかった。




