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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
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第8話「麗子の涙」

浅草の夜は、まだざわめきを残していた。

寄席「金龍亭」の座敷は、浄界七曜陣の光が消えた後も、薄い煙のようなものが漂っている。

倒れ込んだ客たちは、ゆっくりと意識を取り戻し始めていた。

誰かが「…何が起きたの?」と呟き、誰かが自分の腕の掻き傷に気づいて小さく悲鳴を上げる。

だが、誰も死んではいない。

欲望の蝕みは、紅蓮の炎に焼き払われた。

葵は舞台の上で、麗子を抱きしめたまま動かない。

麗子の体は、狐の影が抜けた後、急に小さく、軽くなった。

黒いドレスが、どこかだぶついて見える。

短い髪は乱れ、口紅は涙で滲んでいる。

「……私……」

麗子の声は、震えていた。

人間の声に戻っている。

金色の残滓は、瞳の奥にわずかに残るだけだ。

葵はそっと麗子の背中を撫でる。

戦闘の冷たい指先は、もうない。

いつもの、優しく温かい手。

「あらあら……泣かないで、麗子さん。

もう、大丈夫ですわ」

麗子は葵の胸に顔を埋め、肩を震わせる。

「私……ただ、変わりたかっただけなのに……

重い着物が嫌で、長い髪が嫌で、毎日同じ顔でいるのが嫌で……

誰も振り向いてくれない自分が、嫌で……」

言葉が、途切れ途切れに溢れ出す。

「麗子さんって、素敵な人だって、みんな言ってくれたの。

でも、私の中の私は、いつも足りなくて……

もっと綺麗に、もっと自由に、もっと羨ましがられる私に……

だから、レコードを聴いて……狐の囁きを聞いて……

気づいたら、もう私じゃなくなってた……」

麗子の指が、葵の着物の袖を強く握る。

爪が食い込み、痛いはずなのに、葵は動かない。

「怖かったの……

変わっていく自分が、怖くて……

でも、止まれなくて……

みんなを巻き込んで……こんなことに……」

涙が、葵の胸元を濡らす。

熱い、塩辛い、人間の涙。

葵は麗子の髪を優しく梳きながら、静かに言う。

「ふふっ……変わりたいって思うこと、悪いことじゃないんですよ。

新しい服を着てみたい、新しい髪型をしてみたい、新しい自分に出会いたい……

それは、誰だって持ってる気持ちですわ」

麗子は顔を上げ、葵を見る。

瞳に、金色の残光が揺れている。

「でも……私は、みんなを傷つけて……」

葵は首を振る。

「傷つけたのは、あなたじゃないんですの。

狐の穢れが、あなたの心の隙間を使って、増殖しただけ。

あなたは、ただ……寂しかったんですわね」

麗子の唇が震える。

「……寂しかった……

誰も、本当の私を見てくれなくて……

だから、輝く私になれば、みんな見てくれるって……」

葵は麗子の頰を両手で包む。

優しく、温かく。

「本当の麗子さんを、見てますわ。

今、ここで。

泣いてる麗子さんも、怖がってる麗子さんも、全部……見てます」

麗子の瞳から、最後の金色が、ぽたりと落ちるように消えた。

人間の、澄んだ瞳だけが残る。

「……ありがとう……葵さん……」

麗子は葵の胸に再び顔を埋め、静かに泣き続ける。

嗚咽が、徐々に小さくなる。

葵は麗子の背中を抱きしめながら、ふっと微笑む。

「えへへ……泣き止んだら、羊羹、食べましょうね。

お父様の特製、水ようかんもありますのよ♪」

麗子は小さく頷き、涙声で呟く。

「……食べたい……」

座敷の外では、客たちがゆっくり立ち上がり、互いに支え合いながら出口へ向かう。

誰も、はっきりとした記憶を持っていない。

ただ、「なんか、すごく綺麗な夢を見た気がする」と、誰かがぼんやり呟く。

葵は麗子を支えて立ち上がり、寄席の裏口へ向かう。

外の夜風が、涼しく頰を撫でる。

浅草の賑わいは、まだ続いている。

遠くで、別の蓄音機から歌謡曲が流れている。

葵は麗子の手を握り、静かに歩き出す。


「……今日は、疲れましたわね。

お家に帰って、ゆっくりお風呂にしましょう」

麗子は葵の手を握り返し、小さく頷く。

家に帰ると、みーちゃんが玄関で待っていた。

毛はもう逆立っていない。

ただ、じっと麗子を見つめ、鼻をひくひくさせる。

葵はみーちゃんを抱き上げ、麗子に紹介する。

「みーちゃん、今日はお留守番ありがとうね。

この子は、麗子さん。

これから、友達ですわ♪」

みーちゃんは「にゃあ」と小さく鳴き、麗子の足元にすり寄る。

麗子は驚いたように目を丸くし、そっと手を伸ばす。

「……可愛い……」

葵は二人(と一匹)を連れて、家の中へ入る。

外では、銀座の方角から、かすかなジャズの残響が、まだ聞こえるような気がした。

だが、それはもう、囁きではなく、ただの音楽に過ぎなかった。


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