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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
27/79

第7話「浅草の夜」

大正十一年の夏、浅草は夜ごとに熱気を帯びていた。

雷門の提灯が赤く揺れ、仲見世の呼び声が途切れず、寄席の幟が風に翻る。

人々は浴衣姿で肩を寄せ合い、アイスクリームを舐め、蓄音機から流れる歌謡曲に合わせて足を踏み鳴らす。

だが、その夜の浅草は、いつもより少し違う。

寄席「金龍亭」の入口に、長い列ができていた。

客のほとんどが若い女性たち。

短い髪、クローシェ帽、鮮やかな口紅。

皆、手に『幸せの調べ』のレコードを抱え、瞳を虚ろに輝かせて待っている。

葵は人混みの端から、その列をじっと見つめていた。

着物の上に薄い羽織を羽織り、髪はお団子にしたまま。

だが、瞳の奥にはすでに金色の光が宿り始めている。

みーちゃんは家でお留守番。

今日は、穢れが顕現する瞬間を確実に捉えるために、一人で来ていた。

列が進み、葵も自然に中へ滑り込む。

寄席の座敷は満員。

舞台の上では、噺家が軽妙な落語を披露しているはずなのに。

誰も笑っていない。

客席の全員が、ただじっと前を見つめている。

蓄音機が舞台袖に置かれ、『幸せの調べ』のジャズが低く流れ続けている。

葵は後ろの座に座り、膝の上で九字を結ぶ。

「……ここが、巣窟ですわね」

舞台の幕がゆっくり開く。

噺家はもういない。

代わりに、黒いドレスを着た麗子が立っていた。

短い髪が照明に照らされ、金色に輝く。

口紅は血のように赤く、瞳は完全に狐のそれ。

「皆さん……今夜は特別な夜よ」

麗子の声が、店内に響く。

同時に、蓄音機の音量が急に上がる。

ジャズのリズムが、歪み、重なり、人の心臓の鼓動のように脈打つ。

客たちの肩が、一斉に揺れ始める。

口から、黒い糸のようなものが垂れ落ちる。

欲望が、肉体を内側から蝕み始めている。

麗子はゆっくりと手を広げる。

「聴いて……もっと、聴いて……

あなたたちは、輝けるの。

誰もが羨む私になれるの」

客の一人が、突然立ち上がる。

瞳が白く濁り、唇を震わせながら呟く。

「……もっと……もっと欲しい……」

他の客も、次々と立ち上がる。

座敷全体が、トランス状態に陥る。

指先が震え、爪が自分の腕を掻き毟り始める。

血が、ぽたりぽたりと畳に落ちる。

葵は静かに立ち上がる。

瞳が、完全に金色に変わる。

表情が、無に落ちる。

薄い、冷たい微笑みが唇に浮かぶ。

「……穢れ、顕現」

低く、抑揚のない宣告。

葵の指が閃き、光針穿刺が放射状に放たれる。

針は客たちの体を貫き、黒い影を刺し貫く。

影は悲鳴を上げて縮こまり、畳に染み込むように消える。

だが、すぐに新しい影が這い上がる。

レコードから。

蓄音機の溝から。

客たちの耳から、鼻から、口から。

麗子は舞台の上で笑う。

「無駄よ、葵さん。

この子たちは、もう私のもの」

葵は一歩前へ。

「……違いますわ」

指先が、複雑な印を結ぶ。

「浄界七曜陣——開け」

七つの光の柱が、座敷全体を貫く。

柱はゆっくり回転し、陣を形成。

陣内の空気が、重く歪む。

客たちの体から這い出る影が、光の柱に触れて溶け始める。

肉が焼けるような音。

骨が砕けるような音。

欲望の塊が、紅蓮の炎に包まれて浄化される。

麗子は後退し、喉の奥から唸りを上げる。

「まだ……終わらない……!」

麗子の体から、金色の九尾の影が完全に分離する。

巨大な狐の姿が、舞台の上に顕現。

尾が九本、すべてが金色に輝き、座敷を薙ぎ払う。

葵は動かない。

ただ、陣の中心に立ち、冷たく微笑む。

「……逃がさない」

葵の指が、最後の印を結ぶ。

「沸魂業湯——紅蓮浄化」

陣の中心から、紅蓮の業火が噴き上がる。

炎は狐の影を包み込み、尾を一本ずつ焼き尽くす。

狐の悲鳴が、寄席全体に響く。

「ぎゃあああああ——!」

金色の粒子が、炎の中で散らばる。

狐の姿が、徐々に縮小し、麗子の体に戻ろうとする。

葵はゆっくり近づき、麗子の額に手を当てる。

戦闘の冷たい指先。

だが、声は優しい。

「……麗子さん。

もう、いいんですよ」

麗子の瞳から、金色がゆっくり剥がれ落ちる。

人間の涙が、頰を伝う。

「……私……怖かったの……

変わりたくて……でも、変わったら、もう戻れないって……」

葵は麗子を抱きしめる。

戦闘が、完全に終わる。

陣が消え、座敷は静かになる。

客たちは倒れ込み、意識を失っている。

だが、息はある。

欲望の蝕みは、浄化された。

葵は麗子の背中を撫で、静かに呟く。

「ふぅ……皆さん、大丈夫かしら?」

次の瞬間、葵の瞳が元に戻る。

表情が、いつものほんわかした笑顔に変わる。

「さて……羊羹でも、持ってきましょうか。

冷たい水ようかんも、いいですわね♪」

麗子は葵の胸で、静かに泣き続ける。

外では、浅草の夜がまだ賑やかだ。

だが、寄席の中は、穏やかな静けさに包まれていた。

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