第7話「浅草の夜」
大正十一年の夏、浅草は夜ごとに熱気を帯びていた。
雷門の提灯が赤く揺れ、仲見世の呼び声が途切れず、寄席の幟が風に翻る。
人々は浴衣姿で肩を寄せ合い、アイスクリームを舐め、蓄音機から流れる歌謡曲に合わせて足を踏み鳴らす。
だが、その夜の浅草は、いつもより少し違う。
寄席「金龍亭」の入口に、長い列ができていた。
客のほとんどが若い女性たち。
短い髪、クローシェ帽、鮮やかな口紅。
皆、手に『幸せの調べ』のレコードを抱え、瞳を虚ろに輝かせて待っている。
葵は人混みの端から、その列をじっと見つめていた。
着物の上に薄い羽織を羽織り、髪はお団子にしたまま。
だが、瞳の奥にはすでに金色の光が宿り始めている。
みーちゃんは家でお留守番。
今日は、穢れが顕現する瞬間を確実に捉えるために、一人で来ていた。
列が進み、葵も自然に中へ滑り込む。
寄席の座敷は満員。
舞台の上では、噺家が軽妙な落語を披露しているはずなのに。
誰も笑っていない。
客席の全員が、ただじっと前を見つめている。
蓄音機が舞台袖に置かれ、『幸せの調べ』のジャズが低く流れ続けている。
葵は後ろの座に座り、膝の上で九字を結ぶ。
「……ここが、巣窟ですわね」
舞台の幕がゆっくり開く。
噺家はもういない。
代わりに、黒いドレスを着た麗子が立っていた。
短い髪が照明に照らされ、金色に輝く。
口紅は血のように赤く、瞳は完全に狐のそれ。
「皆さん……今夜は特別な夜よ」
麗子の声が、店内に響く。
同時に、蓄音機の音量が急に上がる。
ジャズのリズムが、歪み、重なり、人の心臓の鼓動のように脈打つ。
客たちの肩が、一斉に揺れ始める。
口から、黒い糸のようなものが垂れ落ちる。
欲望が、肉体を内側から蝕み始めている。
麗子はゆっくりと手を広げる。
「聴いて……もっと、聴いて……
あなたたちは、輝けるの。
誰もが羨む私になれるの」
客の一人が、突然立ち上がる。
瞳が白く濁り、唇を震わせながら呟く。
「……もっと……もっと欲しい……」
他の客も、次々と立ち上がる。
座敷全体が、トランス状態に陥る。
指先が震え、爪が自分の腕を掻き毟り始める。
血が、ぽたりぽたりと畳に落ちる。
葵は静かに立ち上がる。
瞳が、完全に金色に変わる。
表情が、無に落ちる。
薄い、冷たい微笑みが唇に浮かぶ。
「……穢れ、顕現」
低く、抑揚のない宣告。
葵の指が閃き、光針穿刺が放射状に放たれる。
針は客たちの体を貫き、黒い影を刺し貫く。
影は悲鳴を上げて縮こまり、畳に染み込むように消える。
だが、すぐに新しい影が這い上がる。
レコードから。
蓄音機の溝から。
客たちの耳から、鼻から、口から。
麗子は舞台の上で笑う。
「無駄よ、葵さん。
この子たちは、もう私のもの」
葵は一歩前へ。
「……違いますわ」
指先が、複雑な印を結ぶ。
「浄界七曜陣——開け」
七つの光の柱が、座敷全体を貫く。
柱はゆっくり回転し、陣を形成。
陣内の空気が、重く歪む。
客たちの体から這い出る影が、光の柱に触れて溶け始める。
肉が焼けるような音。
骨が砕けるような音。
欲望の塊が、紅蓮の炎に包まれて浄化される。
麗子は後退し、喉の奥から唸りを上げる。
「まだ……終わらない……!」
麗子の体から、金色の九尾の影が完全に分離する。
巨大な狐の姿が、舞台の上に顕現。
尾が九本、すべてが金色に輝き、座敷を薙ぎ払う。
葵は動かない。
ただ、陣の中心に立ち、冷たく微笑む。
「……逃がさない」
葵の指が、最後の印を結ぶ。
「沸魂業湯——紅蓮浄化」
陣の中心から、紅蓮の業火が噴き上がる。
炎は狐の影を包み込み、尾を一本ずつ焼き尽くす。
狐の悲鳴が、寄席全体に響く。
「ぎゃあああああ——!」
金色の粒子が、炎の中で散らばる。
狐の姿が、徐々に縮小し、麗子の体に戻ろうとする。
葵はゆっくり近づき、麗子の額に手を当てる。
戦闘の冷たい指先。
だが、声は優しい。
「……麗子さん。
もう、いいんですよ」
麗子の瞳から、金色がゆっくり剥がれ落ちる。
人間の涙が、頰を伝う。
「……私……怖かったの……
変わりたくて……でも、変わったら、もう戻れないって……」
葵は麗子を抱きしめる。
戦闘が、完全に終わる。
陣が消え、座敷は静かになる。
客たちは倒れ込み、意識を失っている。
だが、息はある。
欲望の蝕みは、浄化された。
葵は麗子の背中を撫で、静かに呟く。
「ふぅ……皆さん、大丈夫かしら?」
次の瞬間、葵の瞳が元に戻る。
表情が、いつものほんわかした笑顔に変わる。
「さて……羊羹でも、持ってきましょうか。
冷たい水ようかんも、いいですわね♪」
麗子は葵の胸で、静かに泣き続ける。
外では、浅草の夜がまだ賑やかだ。
だが、寄席の中は、穏やかな静けさに包まれていた。




