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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
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第6話「囁きの連鎖」

夜が深まる下町の路地。

青葉堂の灯りはすでに消え、父・茂は奥の間でぐっすりと眠っている。

葵は布団に横になりながらも、目を閉じることができない。

耳の奥で、ジャズのメロディが途切れ途切れに響く。

それは、近所の家から漏れてくる音ではない。

もっと近く——心の底から、直接響いてくる。

「……もっと、欲しいでしょ……?

もっと、輝きたいでしょ……?

誰もが羨む私に……なれるわよ……」

囁きは、甘く、ねっとりと絡みつく。

葵は指を耳に押し当てても、無駄だと知っている。

これは音ではない。

欲望そのものが、形を成して囁いている。

みーちゃんは葵の胸の上に乗り、毛を逆立てて低く唸り続ける。

「グルル……グルル……」

葵はみーちゃんの頭をそっと撫で、静かに起き上がる。

「……もう、待てないみたいですわね」

翌朝、葵は祖母・菊乃に相談した。

「お祖母様……『幸せの調べ』が、下町にも広がり始めていますの。

近所のお姉さんたちが、みんな同じレコードを……」

菊乃は静かに茶を啜り、目を細める。

「狐の分霊が、レコードを媒介に増殖している。

一枚聴けば、心の隙間に根を張り、次の者を誘う。

連鎖だ。

このままでは、数日で東京の半分が、欲望の虜になる」

葵の指が、膝の上で九字を結ぶ。

「……麗子さんに、会わなければ」

菊乃は首を振る。

「会うなら、覚悟を決めろ。

おそらく、もうほとんど狐そのものだ。

救えるかどうかは……葵、お前の心次第だ」


昼過ぎ。

葵は一人、『モンマルトル』へ向かった。

店内は、いつもより客が多い。

皆、レコードのジャケットを手に持ち、虚ろな目で蓄音機を見つめている。

カウンターの奥で、麗子が立っている。

今日はワンピースではなく、黒いドレス。

短い髪に、深い赤の口紅。

瞳は、もう完全に金色だ。

「葵さん……やっと来てくれた」

麗子は微笑む。

でも、その笑顔はどこか引きつっている。

人間の表情ではなく、狐の仮面がずれたような。

葵はゆっくりと近づき、テーブルに座る。

「……麗子さん。

あなたの中のものは、何を望んでいるんですの?」

麗子は紅茶のカップを回しながら、くすりと笑う。

「望む? 簡単よ。

人はみんな、輝きたいの。

誰もが羨む存在になりたいの。

私は、それを叶えてあげてるだけ」

麗子が指を鳴らす。

店内の蓄音機が、一斉に『幸せの調べ』を流し始める。

ジャズのリズムが、重なり、歪む。

客たちの肩が、ぴくりぴくりと同期して揺れ始める。

葵の耳に、囁きが洪水のように押し寄せる。

「……もっと、もっと……

髪を切って、唇を赤くして、誰もが振り向く私に……

お金も、愛も、全部手に入るわよ……」

葵の瞳が、金色に変わり始める。

だが、まだ完全にではない。

表情は、ほんわかとした優しさを残している。

「……麗子さん。

あなたは、本当にそれでいいんですの?

ただの人間だった頃の、あなたは……」

麗子の笑顔が、一瞬崩れる。

「人間だった頃……?

そんなもの、もういらないわ。

重い着物も、長い髪も、つまらない日常も……

全部、捨てたのよ」

麗子の指が、葵の頰に触れる。

冷たい。

異様に冷たい。

「葵さんも、捨ててみたら?

この髪、切ったら……きっと、自由になれるわよ」

その瞬間、麗子の瞳から金色の粒子が溢れ、葵の視界を覆う。

幻影が広がる。

鏡の中の自分が、短い髪に赤い口紅、華やかなドレスを着て笑っている。

周りの人々が、羨望の目で自分を見つめる。

胸が、熱くなる。

「……素敵……」

葵の唇から、思わず漏れる声。

だが、次の瞬間——

みーちゃんの姿が、脳裏に浮かぶ。

父・茂の優しい笑顔。

母・菫の手紙。

祖母・菊乃の静かな瞳。

葵の指が、膝の上で九字を強く結ぶ。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」

光の針が、葵の周囲に展開。

幻影が、ガラスのように砕け散る。

麗子は後退し、喉の奥から低い唸りを上げる。

「……まだ、抵抗するのね」

店内の客たちが、一斉に立ち上がる。

瞳が白く濁り、口から黒い糸のようなものが垂れる。

欲望が、肉体を蝕み始めている。

葵はゆっくり立ち上がり、瞳を完全に金色に染める。

表情が、無に落ちる。

薄い、冷たい微笑みが浮かぶ。

「……穢れの連鎖。

ここで、断ちますわ」

指が閃き、光針穿刺が店内に放射状に放たれる。

客たちの体から這い出る黒い影が、次々と刺され、縮こまる。

麗子は裏口へ逃げようとするが、葵の声が低く響く。

「逃がしません」

浄界七曜陣の陣が、店全体を覆う。

七つの光の柱が立ち、麗子の足を封じる。

麗子、いや、狐の影が、悲鳴を上げる。

「まだ……終わらないわよ……!」

葵は静かに近づき、麗子の頰に手を当てる。

戦闘モードの冷たい指先。

だが、声は優しい。

「……麗子さん。

あなたは、あなたでいいんですよ」

その言葉に、麗子の瞳の金色が、一瞬揺らぐ。

人間の涙が、ぽたりと落ちる。

「……私……ただ、変わりたかっただけ……」

葵の瞳が、ゆっくり元に戻る。

戦闘が、わずかに途切れる。

だが、次の瞬間。

麗子の体から、金色の九尾の影が分離し、店内を駆け巡る。

葵は即座に瞳を金色に戻し、低く宣告する。

「……次は、本体ですわね」


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