第6話「囁きの連鎖」
夜が深まる下町の路地。
青葉堂の灯りはすでに消え、父・茂は奥の間でぐっすりと眠っている。
葵は布団に横になりながらも、目を閉じることができない。
耳の奥で、ジャズのメロディが途切れ途切れに響く。
それは、近所の家から漏れてくる音ではない。
もっと近く——心の底から、直接響いてくる。
「……もっと、欲しいでしょ……?
もっと、輝きたいでしょ……?
誰もが羨む私に……なれるわよ……」
囁きは、甘く、ねっとりと絡みつく。
葵は指を耳に押し当てても、無駄だと知っている。
これは音ではない。
欲望そのものが、形を成して囁いている。
みーちゃんは葵の胸の上に乗り、毛を逆立てて低く唸り続ける。
「グルル……グルル……」
葵はみーちゃんの頭をそっと撫で、静かに起き上がる。
「……もう、待てないみたいですわね」
翌朝、葵は祖母・菊乃に相談した。
「お祖母様……『幸せの調べ』が、下町にも広がり始めていますの。
近所のお姉さんたちが、みんな同じレコードを……」
菊乃は静かに茶を啜り、目を細める。
「狐の分霊が、レコードを媒介に増殖している。
一枚聴けば、心の隙間に根を張り、次の者を誘う。
連鎖だ。
このままでは、数日で東京の半分が、欲望の虜になる」
葵の指が、膝の上で九字を結ぶ。
「……麗子さんに、会わなければ」
菊乃は首を振る。
「会うなら、覚悟を決めろ。
おそらく、もうほとんど狐そのものだ。
救えるかどうかは……葵、お前の心次第だ」
昼過ぎ。
葵は一人、『モンマルトル』へ向かった。
店内は、いつもより客が多い。
皆、レコードのジャケットを手に持ち、虚ろな目で蓄音機を見つめている。
カウンターの奥で、麗子が立っている。
今日はワンピースではなく、黒いドレス。
短い髪に、深い赤の口紅。
瞳は、もう完全に金色だ。
「葵さん……やっと来てくれた」
麗子は微笑む。
でも、その笑顔はどこか引きつっている。
人間の表情ではなく、狐の仮面がずれたような。
葵はゆっくりと近づき、テーブルに座る。
「……麗子さん。
あなたの中のものは、何を望んでいるんですの?」
麗子は紅茶のカップを回しながら、くすりと笑う。
「望む? 簡単よ。
人はみんな、輝きたいの。
誰もが羨む存在になりたいの。
私は、それを叶えてあげてるだけ」
麗子が指を鳴らす。
店内の蓄音機が、一斉に『幸せの調べ』を流し始める。
ジャズのリズムが、重なり、歪む。
客たちの肩が、ぴくりぴくりと同期して揺れ始める。
葵の耳に、囁きが洪水のように押し寄せる。
「……もっと、もっと……
髪を切って、唇を赤くして、誰もが振り向く私に……
お金も、愛も、全部手に入るわよ……」
葵の瞳が、金色に変わり始める。
だが、まだ完全にではない。
表情は、ほんわかとした優しさを残している。
「……麗子さん。
あなたは、本当にそれでいいんですの?
ただの人間だった頃の、あなたは……」
麗子の笑顔が、一瞬崩れる。
「人間だった頃……?
そんなもの、もういらないわ。
重い着物も、長い髪も、つまらない日常も……
全部、捨てたのよ」
麗子の指が、葵の頰に触れる。
冷たい。
異様に冷たい。
「葵さんも、捨ててみたら?
この髪、切ったら……きっと、自由になれるわよ」
その瞬間、麗子の瞳から金色の粒子が溢れ、葵の視界を覆う。
幻影が広がる。
鏡の中の自分が、短い髪に赤い口紅、華やかなドレスを着て笑っている。
周りの人々が、羨望の目で自分を見つめる。
胸が、熱くなる。
「……素敵……」
葵の唇から、思わず漏れる声。
だが、次の瞬間——
みーちゃんの姿が、脳裏に浮かぶ。
父・茂の優しい笑顔。
母・菫の手紙。
祖母・菊乃の静かな瞳。
葵の指が、膝の上で九字を強く結ぶ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
光の針が、葵の周囲に展開。
幻影が、ガラスのように砕け散る。
麗子は後退し、喉の奥から低い唸りを上げる。
「……まだ、抵抗するのね」
店内の客たちが、一斉に立ち上がる。
瞳が白く濁り、口から黒い糸のようなものが垂れる。
欲望が、肉体を蝕み始めている。
葵はゆっくり立ち上がり、瞳を完全に金色に染める。
表情が、無に落ちる。
薄い、冷たい微笑みが浮かぶ。
「……穢れの連鎖。
ここで、断ちますわ」
指が閃き、光針穿刺が店内に放射状に放たれる。
客たちの体から這い出る黒い影が、次々と刺され、縮こまる。
麗子は裏口へ逃げようとするが、葵の声が低く響く。
「逃がしません」
浄界七曜陣の陣が、店全体を覆う。
七つの光の柱が立ち、麗子の足を封じる。
麗子、いや、狐の影が、悲鳴を上げる。
「まだ……終わらないわよ……!」
葵は静かに近づき、麗子の頰に手を当てる。
戦闘モードの冷たい指先。
だが、声は優しい。
「……麗子さん。
あなたは、あなたでいいんですよ」
その言葉に、麗子の瞳の金色が、一瞬揺らぐ。
人間の涙が、ぽたりと落ちる。
「……私……ただ、変わりたかっただけ……」
葵の瞳が、ゆっくり元に戻る。
戦闘が、わずかに途切れる。
だが、次の瞬間。
麗子の体から、金色の九尾の影が分離し、店内を駆け巡る。
葵は即座に瞳を金色に戻し、低く宣告する。
「……次は、本体ですわね」




