第5話「流行のレコード」
数日が過ぎ、下町にも少しずつ夏の気配が忍び寄っていた。
青葉堂の店先では、父・茂が新しい夏菓子。
水ようかんを試作し、葵はそれを冷やしながら、時折遠く銀座の方角に目をやる。
麗子が店に来てから、葵の日常は微妙に変わっていた。
穢れの気配はまだ明確ではない。
だが、夜になると、耳の奥でかすかなジャズのリズムが響くような気がする。
蓄音機の針が溝をなぞる音。
そして、その奥から漏れる甘い囁き。
みーちゃんは、最近ほとんど外へ出なくなった。
座布団の上で丸くなり、耳をぴんと立て、銀座の方向をじっと見つめている。
時折、低く喉を鳴らす。
「グルル……」
葵はみーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。
「……もう、隠れられないみたいですわね」
その日の夕方、葵は近所の駄菓子屋の前を通りかかった。
いつもなら子供たちが群がっている場所なのに、今日は妙に静かだ。
代わりに、数人の若い女性たちが輪になって立っている。
皆、短い髪にクローシェ帽、鮮やかな口紅。
モダンガールたちだ。
彼女たちの手には、小さな紙袋。
中から、レコードのジャケットが覗いている。
「ねえ、これ聴いた? 『幸せの調べ』ってレコードよ」
「うん、もう三回も買っちゃった。家に帰ってすぐかけるの」
「聴くとね、なんだか……全部が輝いて見えるのよね」
「私も! 鏡見てたら、自分が世界一綺麗に見えてきて……」
声は明るい。
でも、瞳が虚ろだ。
口紅の端が、微かに震えている。
指先が紙袋を握る力が、強すぎる。
葵は足を止め、そっと近づく。
「あらあら……皆さん、何のお話ですの?」
女性たちは一斉に葵を見る。
一人が紙袋を差し出す。
「これ! 新しいレコードなの。
銀座のカフェーで流行ってるのよ。
一枚聴いたら、もう手放せなくなっちゃう」
ジャケットには、派手な色使いで「幸せの調べ」と書かれている。
蓄音機のイラストの下に、微笑む女性のシルエット。
でも、その微笑みの唇が、どこか引きつっているように見える。
葵はジャケットに指を伸ばしかけ、途中で止める。
「……これ、どこでお買いになったんですの?」
「銀座のレコード屋さんよ。
『モンマルトル』の近くの小さな店。
麗子さんって人が勧めてくれたの」
麗子の名前が出た瞬間、葵の背筋が凍る。
女性の一人が、急に笑い声を上げる。
高く、甲高く、でもどこか空虚な笑い。
「聴いてみて! 絶対、葵さんも好きになるわ。
だって……私たち、みんな幸せになっちゃったんだもの」
彼女の瞳の奥に、一瞬、金色が閃く。
他の女性たちも、同じように瞳が揺れる。
葵は後ずさり、袖の中で九字を結ぶ。
指先が、微かに震える。
「……皆さん、少しお疲れみたいですわ。
今日はゆっくりお休みになった方が……」
女性たちは顔を見合わせ、くすくすと笑う。
笑い声が、ジャズのメロディのように重なる。
「疲れる? そんなことないわ。
だって、レコードを聴いてる間は……全部が輝いてるんだもの」
一人が紙袋からレコードを取り出し、葵に向かって差し出す。
「持って帰って、聴いてみて。
ね? ね?」
葵は静かに首を振る。
「……ごめんなさい。
私、今日は用事が」
女性たちの笑顔が、一瞬で凍りつく。
瞳の金色が、濃くなる。
「聴いて……ほしいの」
声が、低く、重なる。
葵は一歩後退し、九字を完成させる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
光の針が、薄く閃く。
女性たちの足元に、黒い影のようなものが一瞬這い上がり、針に刺されて縮こまる。
彼女たちはぴたりと動きを止め、ぼんやりと立ち尽くす。
瞳の金色が、ゆっくりと薄れていく。
葵は息を吐き、静かに呟く。
「……穢れが、広がり始めてますわね」
家に戻ると、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。
毛を逆立て、喉を低く唸らせ、銀座の方角を睨んでいる。
葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに言う。
「みーちゃん……
『幸せの調べ』というレコードが、街に広がってるみたいですの」
その夜。
下町のあちこちから、かすかに蓄音機の音が漏れ聞こえてくる。
ジャズのリズム。
そして、その奥から、甘くねっとりとした囁き。
「……もっと、欲しいでしょ……?
もっと、輝きたいでしょ……?
誰もが羨む私に……なれるわよ……」
葵は布団の中で目を閉じる。
耳を塞いでも、音は消えない。
むしろ、心の奥に直接響いてくる。
「……麗子さん。
あなたの中のものは、もう、こんなに多くの人を……」
外では、遠く銀座の方角で、
レコードの針が、
溝をなぞる音が、
まるで脈打つように、
低く、確実に、増え続けていた。




