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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
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第5話「流行のレコード」

数日が過ぎ、下町にも少しずつ夏の気配が忍び寄っていた。

青葉堂の店先では、父・茂が新しい夏菓子。

水ようかんを試作し、葵はそれを冷やしながら、時折遠く銀座の方角に目をやる。

麗子が店に来てから、葵の日常は微妙に変わっていた。

穢れの気配はまだ明確ではない。

だが、夜になると、耳の奥でかすかなジャズのリズムが響くような気がする。

蓄音機の針が溝をなぞる音。

そして、その奥から漏れる甘い囁き。

みーちゃんは、最近ほとんど外へ出なくなった。

座布団の上で丸くなり、耳をぴんと立て、銀座の方向をじっと見つめている。

時折、低く喉を鳴らす。

「グルル……」

葵はみーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。

「……もう、隠れられないみたいですわね」

その日の夕方、葵は近所の駄菓子屋の前を通りかかった。

いつもなら子供たちが群がっている場所なのに、今日は妙に静かだ。

代わりに、数人の若い女性たちが輪になって立っている。

皆、短い髪にクローシェ帽、鮮やかな口紅。

モダンガールたちだ。

彼女たちの手には、小さな紙袋。

中から、レコードのジャケットが覗いている。

「ねえ、これ聴いた? 『幸せの調べ』ってレコードよ」

「うん、もう三回も買っちゃった。家に帰ってすぐかけるの」

「聴くとね、なんだか……全部が輝いて見えるのよね」

「私も! 鏡見てたら、自分が世界一綺麗に見えてきて……」

声は明るい。

でも、瞳が虚ろだ。

口紅の端が、微かに震えている。

指先が紙袋を握る力が、強すぎる。

葵は足を止め、そっと近づく。

「あらあら……皆さん、何のお話ですの?」

女性たちは一斉に葵を見る。

一人が紙袋を差し出す。

「これ! 新しいレコードなの。

銀座のカフェーで流行ってるのよ。

一枚聴いたら、もう手放せなくなっちゃう」

ジャケットには、派手な色使いで「幸せの調べ」と書かれている。

蓄音機のイラストの下に、微笑む女性のシルエット。

でも、その微笑みの唇が、どこか引きつっているように見える。

葵はジャケットに指を伸ばしかけ、途中で止める。

「……これ、どこでお買いになったんですの?」

「銀座のレコード屋さんよ。

『モンマルトル』の近くの小さな店。

麗子さんって人が勧めてくれたの」

麗子の名前が出た瞬間、葵の背筋が凍る。

女性の一人が、急に笑い声を上げる。

高く、甲高く、でもどこか空虚な笑い。

「聴いてみて! 絶対、葵さんも好きになるわ。

だって……私たち、みんな幸せになっちゃったんだもの」

彼女の瞳の奥に、一瞬、金色が閃く。

他の女性たちも、同じように瞳が揺れる。

葵は後ずさり、袖の中で九字を結ぶ。

指先が、微かに震える。

「……皆さん、少しお疲れみたいですわ。

今日はゆっくりお休みになった方が……」

女性たちは顔を見合わせ、くすくすと笑う。

笑い声が、ジャズのメロディのように重なる。

「疲れる? そんなことないわ。

だって、レコードを聴いてる間は……全部が輝いてるんだもの」

一人が紙袋からレコードを取り出し、葵に向かって差し出す。

「持って帰って、聴いてみて。

ね? ね?」

葵は静かに首を振る。

「……ごめんなさい。

私、今日は用事が」

女性たちの笑顔が、一瞬で凍りつく。

瞳の金色が、濃くなる。

「聴いて……ほしいの」

声が、低く、重なる。

葵は一歩後退し、九字を完成させる。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」

光の針が、薄く閃く。

女性たちの足元に、黒い影のようなものが一瞬這い上がり、針に刺されて縮こまる。

彼女たちはぴたりと動きを止め、ぼんやりと立ち尽くす。

瞳の金色が、ゆっくりと薄れていく。

葵は息を吐き、静かに呟く。

「……穢れが、広がり始めてますわね」

家に戻ると、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。

毛を逆立て、喉を低く唸らせ、銀座の方角を睨んでいる。

葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに言う。

「みーちゃん……

『幸せの調べ』というレコードが、街に広がってるみたいですの」


その夜。

下町のあちこちから、かすかに蓄音機の音が漏れ聞こえてくる。

ジャズのリズム。

そして、その奥から、甘くねっとりとした囁き。

「……もっと、欲しいでしょ……?

もっと、輝きたいでしょ……?

誰もが羨む私に……なれるわよ……」

葵は布団の中で目を閉じる。

耳を塞いでも、音は消えない。

むしろ、心の奥に直接響いてくる。

「……麗子さん。

あなたの中のものは、もう、こんなに多くの人を……」

外では、遠く銀座の方角で、

レコードの針が、

溝をなぞる音が、

まるで脈打つように、

低く、確実に、増え続けていた。


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