第4話「紅茶に浮かぶ影」
数日後の午後。
青葉堂の店先で、葵はいつものように羊羹を切り分けながら、ぼんやりと外を眺めていた。
父・茂は奥で新しい生地を練り、鼻歌を歌っている。
穏やかな日常。
でも、葵の胸の奥には、あの金色の瞳と、瓦斯灯の下で伸びた影の記憶が、棘のように刺さったままだった。
みーちゃんは店の隅で丸くなり、時折耳をぴくりと動かす。
穢れの気配は、まだ遠い。
だが、確実に「近づいている」ことを、猫の勘は知っている。
そんな中、店の引き戸が静かに開いた。
「こんにちは……葵さん」
柔らかな声。
振り返ると、そこに麗子が立っていた。
今日はクローシェ帽を深く被り、ワンピースの上に薄手のコート。
口紅は深紅で、頰に薄く紅を差している。
笑顔は変わらず優しく、でもどこか作り物めいている。
葵は一瞬、息を止める。
指先が、無意識に袖の中で九字を結びかける。
「あらあら……麗子さん。どうしてここに?」
麗子は小さく頭を下げ、店内を見回す。
「この辺りを散歩してたら、葵さんの和菓子屋さんを見つけて……。
羊羹、買いに来ちゃったの。
前に話してくれたでしょう? 甘さ控えめで、とろけるって」
葵はゆっくりと立ち上がり、笑顔を貼り付ける。
「えへへ、そうでしたわね。……どうぞ、こちらへ」
麗子を店内の小さなテーブルに案内する。
父・茂が顔を出し、「いらっしゃいませ〜」と明るく声をかけ、すぐに奥へ戻る。
何も知らない、いつもの笑顔。
葵は羊羹を一切れ、丁寧に竹皮に包んで差し出す。
「これ、どうぞ。お試しに」
麗子は受け取りながら、ふっと目を細める。
「ありがとう。……ねえ、葵さん。
またカフェー、行かない?
今日は、私のおごりよ」
葵の瞳が、わずかに揺れる。
「……今日は、少し忙しくて」
麗子は首を傾げ、くすりと笑う。
「少しだけ。
紅茶を一杯、飲むだけよ。
葵さんの顔を見てると、なんだか落ち着くの」
その言葉に、葵の胸がざわつく。
落ち着く、それは本心か、それとも囮か。
みーちゃんが、テーブルの下から低く唸る。
「グルル……」
麗子は気づいたように、みーちゃんを覗き込む。
「可愛い猫ね。……でも、今日はちょっと機嫌が悪いみたい」
葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに撫でる。
「みーちゃんは、知らない人に警戒しちゃうんですの。
ごめんなさいね」
麗子は微笑んだまま、立ち上がる。
「じゃあ、銀座のいつもの『モンマルトル』で待ってるわ。
来てくれたら、嬉しいな」
そう言い残し、麗子は店を出て行った。
引き戸が閉まる音が、妙に重く響く。
葵はしばらくその場に立ち尽くす。
みーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。
「……行かなきゃ、いけない気がしますわね」
夕暮れ時。
銀座の『モンマルトル』に、葵は一人で足を踏み入れた。
店内は前回より客が少なく、蓄音機の音だけが静かに流れている。
麗子は奥のテーブルで、すでに紅茶を前に座っていた。
「来てくれた……嬉しい」
麗子が立ち上がり、葵を迎える。
二人はテーブルに向かい合う。
運ばれてきた紅茶は、今日も琥珀色が深い。
表面に、薄い膜のようなものが浮かんでいる。
葵はカップを手に取り、そっと息を吹きかける。
「……麗子さん」
声が、少し低くなる。
「この紅茶……いつもと同じですか?」
麗子はカップを回しながら、目を細める。
「ええ、いつものよ。
どうして?」
葵は紅茶の表面を見つめる。
その膜の下で、何かがゆっくりと動いている気がした。
指先でカップの縁をなぞる。
九字の形を、微かに。
「……穢れの匂いがしますわ」
低く、抑揚のない声。
麗子の瞳が、一瞬金色に閃く。
「ふふっ……葵さん、鋭いわね」
麗子はカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。
「でも、まだ……遊び足りないの」
その瞬間、紅茶の表面が波立ち、黒い影のようなものが這い上がる。
小さな手のような、指のようなものが、葵に向かって伸びてくる。
葵の瞳が、完全に金色に変わる。
表情が、無に落ちる。
「……穢れ、穿て」
指が閃き、光針が一閃。
影は悲鳴を上げて紅茶の中に引き戻される。
店内の客たちは何も気づかず、ただジャズを聴いている。
蓄音機の針が、溝をなぞる音だけが、異様に大きく響く。
麗子は後退し、薄く微笑む。
「まだ、序の口よ。
次は……もっと、近くで」
麗子はコートの裾を翻し、店の裏口へ消える。
葵はゆっくり瞳を元に戻し、紅茶のカップを見つめる。
表面の膜は、すでに消えていた。
「……逃げましたわね」
外へ出ると、銀座の夜が深まっている。
瓦斯灯の光が、長く影を伸ばす。
葵は静かに息を吐き、帰路につく。
家に着くと、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。
毛を逆立て、瞳を金色に輝かせて。
葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに呟く。
「みーちゃん……
麗子さんの中のものは、もう、かなり深く根を張ってるみたいですわ」
遠く銀座の方角から、
蓄音機の音が、
まるでこちらを呼ぶように、
低く、甘く、響き続けていた。




