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朝の連続ホラー小説 大正あおい日和  作者: 泉水遊馬
第3章 ハイカラ狐 後編
24/79

第4話「紅茶に浮かぶ影」

数日後の午後。

青葉堂の店先で、葵はいつものように羊羹を切り分けながら、ぼんやりと外を眺めていた。

父・茂は奥で新しい生地を練り、鼻歌を歌っている。

穏やかな日常。

でも、葵の胸の奥には、あの金色の瞳と、瓦斯灯の下で伸びた影の記憶が、棘のように刺さったままだった。

みーちゃんは店の隅で丸くなり、時折耳をぴくりと動かす。

穢れの気配は、まだ遠い。

だが、確実に「近づいている」ことを、猫の勘は知っている。

そんな中、店の引き戸が静かに開いた。

「こんにちは……葵さん」

柔らかな声。

振り返ると、そこに麗子が立っていた。

今日はクローシェ帽を深く被り、ワンピースの上に薄手のコート。

口紅は深紅で、頰に薄く紅を差している。

笑顔は変わらず優しく、でもどこか作り物めいている。

葵は一瞬、息を止める。

指先が、無意識に袖の中で九字を結びかける。

「あらあら……麗子さん。どうしてここに?」

麗子は小さく頭を下げ、店内を見回す。

「この辺りを散歩してたら、葵さんの和菓子屋さんを見つけて……。

羊羹、買いに来ちゃったの。

前に話してくれたでしょう? 甘さ控えめで、とろけるって」

葵はゆっくりと立ち上がり、笑顔を貼り付ける。

「えへへ、そうでしたわね。……どうぞ、こちらへ」

麗子を店内の小さなテーブルに案内する。

父・茂が顔を出し、「いらっしゃいませ〜」と明るく声をかけ、すぐに奥へ戻る。

何も知らない、いつもの笑顔。

葵は羊羹を一切れ、丁寧に竹皮に包んで差し出す。

「これ、どうぞ。お試しに」

麗子は受け取りながら、ふっと目を細める。

「ありがとう。……ねえ、葵さん。

またカフェー、行かない?

今日は、私のおごりよ」

葵の瞳が、わずかに揺れる。

「……今日は、少し忙しくて」

麗子は首を傾げ、くすりと笑う。

「少しだけ。

紅茶を一杯、飲むだけよ。

葵さんの顔を見てると、なんだか落ち着くの」

その言葉に、葵の胸がざわつく。

落ち着く、それは本心か、それとも囮か。

みーちゃんが、テーブルの下から低く唸る。

「グルル……」

麗子は気づいたように、みーちゃんを覗き込む。

「可愛い猫ね。……でも、今日はちょっと機嫌が悪いみたい」

葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに撫でる。

「みーちゃんは、知らない人に警戒しちゃうんですの。

ごめんなさいね」

麗子は微笑んだまま、立ち上がる。

「じゃあ、銀座のいつもの『モンマルトル』で待ってるわ。

来てくれたら、嬉しいな」

そう言い残し、麗子は店を出て行った。

引き戸が閉まる音が、妙に重く響く。

葵はしばらくその場に立ち尽くす。

みーちゃんの背中を撫でながら、静かに呟く。

「……行かなきゃ、いけない気がしますわね」

夕暮れ時。

銀座の『モンマルトル』に、葵は一人で足を踏み入れた。

店内は前回より客が少なく、蓄音機の音だけが静かに流れている。

麗子は奥のテーブルで、すでに紅茶を前に座っていた。

「来てくれた……嬉しい」

麗子が立ち上がり、葵を迎える。

二人はテーブルに向かい合う。

運ばれてきた紅茶は、今日も琥珀色が深い。

表面に、薄い膜のようなものが浮かんでいる。

葵はカップを手に取り、そっと息を吹きかける。

「……麗子さん」

声が、少し低くなる。

「この紅茶……いつもと同じですか?」

麗子はカップを回しながら、目を細める。

「ええ、いつものよ。

どうして?」

葵は紅茶の表面を見つめる。

その膜の下で、何かがゆっくりと動いている気がした。

指先でカップの縁をなぞる。

九字の形を、微かに。

「……穢れの匂いがしますわ」

低く、抑揚のない声。

麗子の瞳が、一瞬金色に閃く。

「ふふっ……葵さん、鋭いわね」

麗子はカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。

「でも、まだ……遊び足りないの」

その瞬間、紅茶の表面が波立ち、黒い影のようなものが這い上がる。

小さな手のような、指のようなものが、葵に向かって伸びてくる。

葵の瞳が、完全に金色に変わる。

表情が、無に落ちる。

「……穢れ、穿て」

指が閃き、光針が一閃。

影は悲鳴を上げて紅茶の中に引き戻される。

店内の客たちは何も気づかず、ただジャズを聴いている。

蓄音機の針が、溝をなぞる音だけが、異様に大きく響く。

麗子は後退し、薄く微笑む。

「まだ、序の口よ。

次は……もっと、近くで」

麗子はコートの裾を翻し、店の裏口へ消える。

葵はゆっくり瞳を元に戻し、紅茶のカップを見つめる。

表面の膜は、すでに消えていた。

「……逃げましたわね」

外へ出ると、銀座の夜が深まっている。

瓦斯灯の光が、長く影を伸ばす。

葵は静かに息を吐き、帰路につく。


家に着くと、みーちゃんが玄関で待ち構えていた。

毛を逆立て、瞳を金色に輝かせて。

葵はみーちゃんを抱き上げ、静かに呟く。

「みーちゃん……

麗子さんの中のものは、もう、かなり深く根を張ってるみたいですわ」

遠く銀座の方角から、

蓄音機の音が、

まるでこちらを呼ぶように、

低く、甘く、響き続けていた。




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